第16話
薄暗がりの中を茫然と漂っていた。踏み出す足の感覚は朧気で、気を緩めた次の瞬間には溶けて消えてしまいそうなほどの心細さ。
だけど、進むことをためらう気持ちはなかった。見えない多くの手が背中を押してくれる。そこから伝わる熱が薄い霞のような輪郭を突き抜けて、前へ、前へ、と導いてくれる。
彼女は歩かなくてはならなかった。歩みを止めて後退することを望まなかった。
この胸を締め付ける温かな感覚はなんだろう?
彼女が抱いた、産まれて初めての疑問は前へ進めと訴えていた。
「……」おかえりなさい。ジョーカ。私はアンジ。あなたと同じゴーレム少女。
差し伸べられた手に懐かしさを感じて、笑みが零れた。
ジョーカ。
彼女はその響きをひどく気に入った。
二人だけになった世界から旅立つ時が来た。
彼女とアンジは広くて何もない部屋の中から外へと駆け出していった。
二人は手を取り合って、どこへ向かうのか。
「……」私。海って見たことないんだ。
彼女は繋がれた手に力を込めて、お揃いのワンピースに身を包んだアンジに寄り添う。
「……」私も初めてかな。
空っぽだった部屋の片隅に残されていたのは二着の色違いのワンピース。それと、広い海を臨むとある町の名が印字された二枚の切符。
切符をそれぞれ空いた方の手で握りしめて彼女たちは旅立った。突き抜けるような晴天に目がくらみ、照りつける陽の光がじんわりと肌を焼く。まがい物の身体であっても感じられるその生の悦びに駆けだした。
蒼穹と瓜二つの広大な海に呆れて開いた口。
そんな顔をお互いに認めてくつくつと笑い合った。
海風は塩辛く、どことなく自分たちを形成している肉体に近しい匂いを感じて彼女の奥底に眠っていた感情が蘇ってくる。
「……」私たち、あそこに還っていくんだよね?
ジョーカの音は直接届く。それが解っていてもジョーカの口はその音の形を描いていた。
直接繋がっているから、意志を示すための動きに実際ほどの意味はない。
それは彼女にとっては前世の名残で、習い親しんだ癖のようになかなか抜けるものでもなかった。
「……」そうだよ。
アンジもその音を作り出す形に口を歪めてみせた。なんだか、その仕草が嬉しくて繋いだ手により力がこもる。
「……」魚に食べられるのって、どんな気分なんだろう。
「……」ね。どうなんだろ、解らないね。
ジョーカがアンジを食べる。もしくは、アンジがジョーカを食べる。それで、現世での存在は消せる。終わりにできる。
「……」でも、私たちはもう、食べる/食べられる関係じゃないから。
アンジの声からは、少しだけ湿っぽい質を読み取ることができた。
「……」ゴーレム少女同士は食べたりしないんだね?
「……」うん。
繋いだ右の手と左の手の指をさらに絡み合わせて、空に掲げてみる。透き通るような白さだが、そこを透過して海の青を映し出すことはできない。厳密な主を失った彼女らに残された道は如何にしてこの世を去るか? という簡単なようで難しい問題だった。
アンジは繋いだ手を噛む。触れた歯に反発する肉と骨の性質を見せた瞬間には、ぐにゃりと不定形の粘土のように崩れて、二つの手だったものが癒着する。
「……」こうしておけば、海の中でも離れ離れにならないから。
「……」うん、ありがとう。そろそろ行こうかアンジ。
二人のゴーレム少女は青い海の底を目指して歩き出した。周りに人は見られない。だから、彼女らを制止する声は聞こえない。
ほんのひと時の間の別れだ。そう難しく考える必要はなかった。
だけど、何だろう? とジョーカは考えていた。一瞬一瞬はどうとでもない日常の光景なのに、ふとした瞬間に掛け替えのない感情が湧き起こるこのこころに。
明確な形があるとしたら、それは一体どんな形をしているのだろう。
それも直に知れるかもしれない。
水面に触れた身体の浮遊感に踊らされて、ジョーカの心も揺れ動く。
やがて、解けて蕩けて、啄まれて……。
彼女はまどろみの中を漂う個となり集合と化す。
ゴーレム少女(仮) 梅星 如雨露 @kyo-ka
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