『七つの人形の恋物語』に感じる美しさ
(注)『七つの人形の恋物語』に関するネタバレが含まれます
解釈しようとすれば、とても残酷な物語だ。しかし、言い知れぬ美しさを感じて、しばし立ち尽くしてしまう。作者ポール・ギャリコはなぜこのような物語を紡げたのか。どうやってこの物語を見つけたのか。
主人公ムーシュは、助けられるべき者として登場する。特別な何かは持たず、自らの命さえ軽んじようとしている。彼女は人形たちによって助けられていくように見えるが、物語はおかしな方へと進んでいく。人形の陰に隠れた男、コックこそが救いを求める者なのである。
「あたたかさややさしさというものがおおよそみられない」コック。人形を操るこの男には、普通の人形に見られる人間らしさが全く見られないのだ。人形たちはこの男の別人格であり、影であり、ペルソナであると理解されるであろう。しかしコックは、ただ冷徹であるのではない。彼自身も、ムーシュと共にいることを求めているのだ。優しい人形たちを操るコックは、決して人形たちに助けられることはない。人形を操っているとき、彼は台の下で息をひそめている。彼の手、彼の声が人形を動かしているとき、彼の心はどうなっているのだろうか。
私には、コックと人形たちがかい離したものには思えなかった。それは全て、コックが「知っているもの」に思えた。やさしさもあたたかさもユーモアも嫉妬も、全て彼の内にあり、仮の心と結びついているものだ。人形という形で表わされるため完全な人格を七つも作ったかのように見えてしまう。しかし、むしろ人形たちが、人間にとってはかえって不自然な「完全な人格」という破綻を防ぐために作った主こそ、コックこそが最も「作られた」人格であるように思われる。人形たちは完全な一面性という不完全さを、コックという冷たく強靭な糸によってつなぎ合わせているのだ。
コックは器用であるばかりに、人形たちの求める不器用さに閉じ込められる道を選んだ。人々との生々しい関わりという名誉を、人形たちに全て譲り渡してしまった。彼のやさしさやあたたかさは、彼と人形との間に閉じ込められてしまったのだ。
普通、人にはそこまでの強さはない。ありもしない完全さを、自らの体と人格で装ってしまうのだ。だから私たちはいつも破綻の危機にある。コックは危機を回避するすべを知ってしまったばかりに、自らの人格の見栄えを気にしなくなってしまった。
しかしムーシュを見つけて、コック自身の人格が迷ってしまったのだ。人形でないものに対して、やさしさやあたたかさを向けるという選択肢にさらされた時、彼は、彼自身は程よい行為を選び取るだけの弱さを持っていなかった。
それでもこの物語は悲しみに包まれない。ムーシュは人形たちを愛し、不器用なままに強さを見せるようになる。カーテンの陰に隠れていた男は、初めて意図から逆流するやさしさ、あたたかさに触れるのである。
コックはムーシュの清らかさを嫌った。しかしムーシュの清らかさは、それ以外を内に押し込めた結果なのだ。それが普通の人間の流儀なのだ。コックが破綻していく様は、彼が人間らしさを取り戻す様だ。
これは美しい物語ではない。倫理的にはひどい話である。例えば『さよなら渓谷』が突き付けてくるような、強烈で暗い問いかけと言えばわかってくれる人もいるだろうか。コックを決して許せない、と感じる人もいて当然だろう。しかしコックこそが救われるべき人間だと考えた時、しばし混乱し、そして向き合わなければならないと覚悟する。
私が感じた美しさは、ハッピーエンドになることにでも、伏線が回収されることにでも、残酷さを書ききったことに対してでもない。この物語を作ろうと思い、完成させたポール・ギャリコに対して感じたのだ。
参照
ポール・ギャリコ著 矢川澄子訳『七つの人形の恋物語』王国社(1997)
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