谷川俊太郎とクラムボン、詩と音楽


「どんな詩人に影響を受けていますか」

 たまに聞かれると、戸惑ってしまう。昔は素直に、「谷川俊太郎です」と答えていた。すると、相手はがっかりする。ミーハーと思われたのだろうか。もっと新しい名前を知りたかったのだろうか。

 教科書の中で谷川さんの詩は輝いていて、お小遣いで買える範囲の文庫本を売っていた。谷川さんの影響を受けるのは当然じゃないか、と思っていた。

 最初の頃の詩作は、谷川を真似る部分が大きかった。ただ、十代の私は音楽ばかり聴いていた私は、音楽の言葉に影響されて、そちらの真似をするようになった。より具体的でとがった言葉を。そういう楽曲に惹かれ、そういう詩を作りたいと思っていたのである。

 だが、いろいろな音楽と出会い、感じ方も変わってくる。私が今でも「影響を受けた人」で挙げるうちの一人は平松愛理である。彼女の歌詞は、架空の主人公の物語であることが多い。私も、一つの詩で物語を紡ぐのが好きになった。そしてもう一人影響を受けたのが原田郁子、クラムボンのボーカルである。

 クラムボンは独特のリズムが癖になり、そこに合わせた言葉がすっと入ってきたり、余韻として残ったりする。言葉を大事にしているし、言葉を楽器のように使っているとも感じた。そして、谷川俊太郎と似ているとも思ったのである。

「影響を受けているアーティストは平松愛理とクラムボンです」と私は答えている。



 今回『ユリイカ』で谷川の特集があり、その中に原田の記事があると知り納得した。仕事を共にしたので当然ではあるのだが、「二人のかかわり」はすでに過去の作品にあったように思う。特にクラムボンの「ドギー&マギー」という曲は単純な言葉の面白さとリズム、そしてもの悲しさが詰めこまれており、谷川俊太郎の詩に似ていると感じていた。 



「すごい……、もう、歌……、だ…………」(p.76)



 谷川に送られた詩を見た時、原田はそう感じたという。私はクラムボンの楽曲に詩を感じていたので、感情に道筋をつける言葉のように思えた。クラムボンの楽曲には詩を感じる。それは歌詞が詩のようなのではなくて、音とリズム、歌声、すべてが言葉と混ざり合って詩なのである。



「うまく語れないことこそ、音楽の本質ですよね」(『ユリイカ 臨時増刊号92年目の谷川俊太郎』p.73)



 谷川は音楽の方が偉いと思っているらしい。語ること。言葉が溢れること。それが、言葉の値打ちを下げている。耳が痛い人、反発する人もいるだろうが、私はこれを聞きすっとする。詩を書くことは、一つの可能性をつぶしてしまうことだと思う。暴かれた言葉の可能性は、成功であるとは限らない。失敗の中に投げ込まれた言葉を、悲しいと思ってあげる暇すらないほどに、言葉は溢れてくる。詩作はそれを加速させる。(もちろん、新しい可能性を引き出すこともあるだろう)



 音楽を聴いて聴いて、ある時から洋楽を聞くようになり、クラシックを聴くようになり、ユカラやケチャを聴くようになった。次第に、具体的な言葉の意味の分からないものに安心するようになった。それでも、意味を感じ取ることはある。合っているとか、間違っているとか、そういうことは気にせず、わがままに楽しめるのが音楽である。

 私は音楽の方が偉いとは思わないが、やはり音楽に影響を受け続けている。詩を読むと、「その人」(作者ではない)を知った気分になる。音楽を聴くと、「何か」を知った気分になる。別の快楽なのである。

 だが、谷川とクラムボンには、詩と音楽の中間のような快楽を感じる。何かを知ったような、ただ楽しんだような。わからないことが増えたような、どうでもいいような。知らない言葉のような、打楽器のような、鼓動のような。いつか、そういう詩も書けるようになりたい。



引用・参照

クラムボン「まちわび まちさび」(2000)

『ユリイカ 臨時増刊号92年目の谷川俊太郎』(2024)青土社


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