人間は人間を作りたいのか――「イヴの時間」と「プラスティック・メモリーズ」より



(注)「イヴの時間」「プラスティック・メモリーズ」のネタバレが含まれます



 「イヴの時間」では、人間にそっくりなアンドロイドが天使の輪のようなものを付けている。これがないと人間と見分けがつかないのである。ロボットに心理的に依存する状態が心配されており、「ロボットをロボットとして扱うこと」が徹底して求められている。

 だが、頭の輪は消すこともできる。この状態ではアンドロイドは人間と変わりがなく、人間のように過ごすことができる。全く見分けがつかないため、アンドロイド同士が、お互いを人間だと思っている場面もある。ただし、輪を消して過ごすのは違反状態である。

 この物語には、他にも重要なロボットが登場する。旧型の、私たちが想像するような形のロボットである。違法投棄された、壊れかけのロボット。長年子供の世話をしてきたが、会話が禁止されたロボット。これらは一目見て人間と違う存在とわかる「道具」として存在する。ここで一つの疑問が生じる。ロボットが新型へと発展してきたのはわかるが、なぜ最新型が「人間そっくりなもの」になったのだろうか。

 この作品に限らず、未来を描いた作品には多くの「人間そっくりな」ロボットが描かれてきた。現実世界でも、人間に模したたロボットは開発されている。しかし機能的な問題、ロボットを使用する目的から考えた時、ロボットを人間と見分けがつかないほどに人間そっくりにすることが必要なのだろうか。

 マツコロイドや米朝アンドロイドを製作した石黒浩氏は、介護用ロボット「テレノイド」も開発している。こちらは人間をモデルにしているものの、一目見てロボットだとわかる。このロボットが無表情なのは、『「人間らしさ」を残し「その人らしさ」を取り除くためです』(「石黒浩教授やテレノイドについて」より)という理由らしい。石黒氏の技術からすれば、もっと人間に近づいた見た目にすることは可能だったはずだ。しかし介護という目的があれば、道具としてのロボットに求められるのは「そこ」ではないのだろう。

 石黒氏は、「人間に近づけること」と「ロボットに求められること」の二つに挑戦しているように見えるが、どちらも「人間とは何か」という問いに帰結するようである。ロボットに感じる人間らしさは、見た目から得られるものだけではない。

 「イヴの時間」における旧作ロボットは、見た目以外の点で私たちに「なにがロボットらしいと感じるのか」「なにを人間っぽいと感じるのか」「ロボットに求めるものとは何か」を問いかけてくる。

 また、ここにはロボットが人間と決定的に異なる点が表現されている。「旧型になること」である。家電のように「使えるから」保持する人もいれば、「新しい型が出たから」乗り換える人もいるはずだ。地方で十分活躍できている旧型列車が、ある日山手線のホームに止まっていたら人々は違和感を抱くだろう。その人にとって十分な機能を備えていても、「ガラケーを使っている」と、少しバカにされたように言われているのもたまに見る光景である。周囲の影響で、必要かどうかではなく「新しいものの方が普通だ」と乗り換えが進んでいき、物語における新型ロボットは普及していったのかもしれない。

 普通の道具は、旧型になって捨てられても何の感情もない。しかしロボットは、感情を抱いてしまう。ロボット自身にとっては、与えられた仕事を、与えられた機能でしっかりこなしてきたのだ。しかし新型の登場によって、「不十分なもの」になってしまう。また、ロボットであることによって「人間ならば普通の」機能を封じられることもある。ある日命令により話すことを禁じられたロボットは、許可が出るまで会話機能を使えない。人間と見分けがつかなくなったアンドロイドにとっては「話すこと」の方が自然に映り、見た目がロボット的なロボットにとっては「話さないこと」が普通に見える。搭載された機能によってではなく、見た目のイメージに合った振る舞いを求められ、より一層古いと思われるようになる。

 「イヴの時間」は人間とロボットの交流を描く物語であると同時に、ロボットとロボットの物語でもある。人間そっくりなロボットが生み出されるということは、ロボット社会にも大きな影響を与えるのだ。



 「プラスティック・メモリーズ」にも人間そっくりなアンドロイド、「ギフティア」が登場する。言われなければ人間と見分けがつかないが、ギフティアは約9年4ヶ月使うと回収される。家族として過ごした人々にとっては悲しいことであるが、「10年近くもの使用が想定されている」ともいえる。もちろんその間に別のアンドロイドが開発されることもあるだろうが、ある種の「使用し続けられる、完成された型」と考えられているのがわかる。

 主人公はギフティアを回収する職場に就職するのだが、そこでもギフティアは働いている。このギフティア、アイラは回収が近くなり能力低下しているのだが、出会ったばかりの者には「そういう人」にしか見えない。老いることもなく、ただ期限が訪れると機能停止させられる存在なのである。

 天使の輪さえないギフティアは、人間と同じような役割が期待されており、それでいて人間とは異なる人生が定められている。彼らははっきりと道具でありながら、人間と見分けがつかないものとして存在させられているのである。



 「人間そっくりなロボット」に関しては多くの作品で取り扱われてきた。しかしロボットが人間とそっくりに作られる必要とは何だろうか? 新型のロボットが開発されるのは、現実と同じである。人間の動き、見た目に近づいていくロボットもある。しかしその一方で、全く人間とは違うロボットも生み出されている。人間にできないことさせるために生み出される場合、ロボットは人間とは違う形になっていく。

 石黒氏がそうであるように、探求という面で人間そっくりなロボットは今後も求められるだろう。だが、道具として考えた場合、見分けがつかなくなるぐらいに人間そっくりになることが求められるかはわからない。テレノイドがそうであるように、使用の目的を考えれば人間にそっくりでない方がよいのではないだろうか。そもそも人間はすでに何億人もいるのに、なぜ人間と同じような存在を生み出そうとするのだろうか。人権のない、奴隷としてアンドロイドを生み出そうとしているのだろうか。単なる「そういうものを作り出したい」という欲求が大きいのだろうか。はたまた、「似姿を与える」ことで神のようになろうという思いが投影されているのだろうか。



 「イヴの時間」と「プラスティック・メモリーズ」に共通するのは、アンドロイドに悩みがあることである。人間と同じ姿なのに、決定的に違う存在である自分。道具として回収される運命にある自分。単なるAIの発達という問題ではなく、「人間とそっくりであること」が人工物の新たな悩みとなっているのである。さらに言えば、彼らはそれ以上の発達を求められていないともいえる。人間に近づけていくのが目標である以上、人間を越えることは必要ないのだ。ロボットは人間以上の力、人間以上の思考力、人間以上の大きさなどを付与することができるはずである。しかし「人間そっくりが求められる」世界では、制限されることこそが正しさになるかもしれない。それは、ロボット自身のアイデンティティにかかわる事柄とならないだろうか。

 時代はフィクションの技術に近づいていく。しかし、「人間そっくりのロボットを社会に普及させない」という選択肢はまだ実現可能だ。「未来に生まれるロボットが苦悩するかもしれない可能性」を、二つの物語は考えさせるのである。



吉浦康裕監督「イヴの時間」(2008)

林直孝原作「プラスティック・メモリーズ」(2015)

「石黒浩教授やテレノイドについて」 Telenoid Healthcare Company https://telenoid.co.jp/question/telenoid/

 

 

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