時間の輪における「私」(「火の鳥 異形編」より)

※「火の鳥 異形編」に関するネタバレがあります



 手塚治虫「火の鳥 異形編」は、『火の鳥』という作品中においても不思議な短編である。誰も火の鳥の血を求めず、主人公が知らぬ間に永遠の輪の中に捕らわれている。いわゆるループものである。

 単純化すれば、「罪を償うまで何度も同じ時間を繰り返す」ということなのだが、他の要素が不思議なのである。それは、次の2点である。


1.なぜ、女性と女性なのか

 主人公左近介は、戦国大名の娘である。後継ぎにすべく、男として育てられたのだ。そして彼女は、父の病気を治させないように、治癒能力を持った尼僧、八百比丘尼を殺す。ここで、「過去に戻り殺された相手として生きる→自分に殺される」というループが生じる。だが、なぜ手塚はこのような回りくどい設定にしたのか。普通に息子が男性僧を殺す話でも、罪は表現できたはずである。

 

2.なぜ、1人ではなかったのか

 左近介には可平という従者がおり、彼もまた時間の輪の中に閉じ込められる。彼は人を殺しておらず、ただ左近介に付き従っていただけに見える。それで外界から閉ざされ、長い年月を過ごすことになるのは理不尽ではないか。


 最初に「男として育てられた戦国大名の娘とその従者」がたまたまいたとすれば、それほど不思議なことではない。左近介はたまたまそういう人間で、可平はたまたま巻き込まれたのである。しかし、物語は必然で成り立っている。そういう設定になったのは作者の意図があるはずだ。


1.についていろいろ悩んだ末私は、「ループものの根本的な疑問」に立ち返ってみようと思った。「お約束」と切り捨てている部分にも、作者は答えを与えているかもしれないのである。

 ループものにおける根本的な疑問とは、「最初の1周目はどうなっていたのか」である。最初の八百比丘尼は、成長した左近介ではなかったはずだと考えるのが普通だろう。火の鳥が介入する前からタイムリープが発生していたのではつじつまが合わない。とすれば、最初の二人は似ていなかったはずで、火の鳥によって「八百比丘尼になり得る存在」として左近介は過去に飛ばされたのだ。

 最初の左近介は、男だったのではないか? これが、私の仮説である。八百比丘尼を殺した左近介は、過去に閉じ込められた時に八百比丘尼として生きていく決意をした。女性のふりをする男性となったのである。しかしその世界で、女性の左近介が生まれる。この、「2周目の世界」は、自らを殺す呪われた運命の世界になった……ということではないか。

 ただし、そのように仮定すると一つの問題が生じる。左近介はもともと、恋した男性を失ったきっかけを作ったのが父であり、そのことが父を殺す大きな動機となっているのである。民のためだと自らを納得させているが、その言い訳もまた火の鳥に引っかかったのだろう。恨みながらも彼女は、自ら父を斬ることはしない。「思い人を死地に送り込んだ」という父のやり方と同じように「病気を治す僧の存在を消し治療させない」という間接的なやり方で目的を果たすのである。これは、呪詛のこもった汚いやり方と言えないだろうか。左近介がもともと男性だったとすると、この辺りの話は変わってきて、父への思い自体が変わってしまう。

 そうだとすれば、八百比丘尼の方がもともと男性だったのかもしれない。男性僧侶を殺した左近介は、飛ばされた過去で尼僧として生きていく決意をする。あるいは火の鳥が、そのような過去を準備したのかもしれない。あの鳥は何をしでかしても不思議ではない。

 では、そのような「性別が変わって再び自分に殺されるようになった世界」とは何のために作られたのだろうか。ここには、「あなたが殺した相手は、あなたを殺す相手かもしれない」という火の鳥のメッセージがあるのではないかと考える。敵を、部下たちを、そして思い人を死なせた父を、左近介は恨んでいる。しかしそんな彼女もまた、八百比丘尼と父を死なせることになる。「私は正しい」という彼女の思いを考え直させるため、左近介の考えるほど「私」は明確なものではないと火の鳥は突き付けているのではないか。性別すらもループの中で変わってしまう、そのことを示すために「女性と女性」の世界が読者に提示されているのではないか、と私は推測する。


 では、2.についてはどうだろうか。可平は巻き添えのように過去に飛ばされる。彼自身はもう一人の自分との間に何かが起こるようには描かれていない。可平は寺で出会った異形の者たちの姿を絵に描き留めている。左近介と違い、彼は犯行の日に外の世界に逃れる。他の人々にとっては「30歳年を取った可平が戻ってくる」ことになるのである。

 もし可平に罪があるとすれば、1周目から可平が外に戻れたのかはわからない。火の鳥は「罪が消えていれば」外の世界に逃れられると言っている。「河平の罪が消えた回」を私たちは見ているのかもしれないのである。

 では、可平の罪とは何か。外の世界に逃れるとき、八百比丘尼を殺害した後可平は「私めは左近介さまが何をなされようと お従い申すだけでして」と述べている。(p.158)また、30年の時を経て逃げる直前、可平は「私めは……あなたさまをおしたいしておりました」(p.243)と左近介を抱きしめる。幼い頃から職務として忠誠を使っていると見ることもできるが、そこに異性への特別な感情があったと見ることもできる。彼は左近介の犯行を止めようとせず、ただ付き従った。忠誠心からにしろ恋心からにしろ、可平は自分の私欲から殺害を止めなかったと見ることもできるのである。

 戦国時代に、殺人という理由だけで火の鳥が介入してくるとは思えない。改心する見込みがあるからこそ、左近介と可平に罰を与えたはずである。従者として色欲を抑え、罪なく三十年を生きたことにより「可平だけ」は解放されたのかもしれない。

 そしてこの「巻き添えになる従者」をわざわざ描いたのは、やはり「私のあいまいさ」にかかわるのではないか。「私」とは、罪を犯すものだけではなく、罪を止められないものになるかもしれない。少し世界が違えば、立場は反対だったかもしれない。「どんな私に生まれても正しく生きる」ことを求め、火の鳥は可平にも罪を与えたのではないか。

 では、可平にはなぜ「異形のものの姿を描く」という特殊な役割を与えられたのだろうか。作品のサブタイトルが「異形編」であることからも、そこには重要な理由があると考えられる。

 左近介はすぐに異形の者たちも救おうとするが、可平はただ恐れる。だがそれでも、その姿を描いて「存在を認める」ようにはなるのだ。これは、「キュアとケアの関係」に似ていないだろうか。左近介は直接治療(キュア)する者である。そこに導き、その存在を認め、キュアする者の支えとなる(ケア)方向へと可平は傾いていったのではないか。可平自身は自らの決心で正しい道を選ぶだけの胆力がないが、左近介の善い行いにも十分に付き従ったのである。

 火の鳥は過去に戻った左近介に対し、「無限におとずれるすべてのものの命を救ってやることです」(p.236)と言う。それは、可平にも課されたものだったのかもしれない。可平には彼なりの役目があり、まずは主人の犯行を止めることであり、次は主人の手助けをし、弱き者たちの存在を認めることだった。そして私たちは、どのような立場に生まれるかわからない。「私は左近介に生まれるか、可平に生まれるか、八百比丘尼に生まれるかわからない。それは別の世界の異形のものかもしれない。その私を受け入れ、正しく生きていくことができるか」それを問うてくるのが、「火の鳥 異形編」なのかもしれない。




参照・引用

手塚治虫『電子書籍版火の鳥 13』(2014)手塚プロダクション


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