「ナビィの恋」と正しさ
※「ナビィの恋」のネタバレが含まれます。
美しい沖縄の風景と、時折挟み込まれるミュージカルのような音楽シーン。美しい三線の旋律。映画「ナビィの恋」を観て、沖縄にあこがれを抱いた人も多いのではないか。しかし私はこの作品の物語に、度肝を抜かれたのである。
この作品では、二つの三角関係が描かれる。一つはタイトルにもなっている、ナビィに関するものだ。主人公奈々子の祖母ナビィ(「鍋」が由来となる呼び名)は、恵達と幸せに平穏に暮らしている。だが、奈々子と同じ船に乗っていたサンラー(三郎?)と、昔恋人関係であった。村のユタ(シャーマン)に反対され、二人は結婚できずサンラーは島を追い出されるのである。
島にいる幼馴染のケンジは奈々子のことが好きだが、奈々子は彼のことを愛していない。島にたまたま訪れた福之助と奈々子は仲良しになっていくのである。
作品ではこの2世代離れた2組の三人の模様が描かれるのだが、そこには大きな違いがある。
この作品ではいくつもの「正しさ」が描かれている。ナビィとサンラーは、ユタの言葉により結婚できなかった。ユタの言葉に従うのは島の人々にとっては宗教的に「正しい」ことである。その一方で恵達は、島を出て行くサンラーを見送りたいというナビィの願いをかなえるため、柱に縛られていたナビィと約束をする。ナビィを解放する代わりに、結婚してほしいというのである。二人は約束をし、結婚することになる。約束を守るという倫理的に「正しい」行為をしたのである。
そして最後に問われるのが、それは「正しい」のかということである。ナビィは戻ってきたサンラーのことが気になる。何十年経とうとも好きだったのだ。「好きな者同士が幸せになること」を、私たちは正しいと感じる。ただし、「結婚している相手がいる場合」はそうとは言えない。ナビィは果たして約束と法律を守るのか、それとも自分の思いに従うのか。
若者組は、様子が違う。ユタの言葉では奈々子はケンジと一緒になるべきというが、奈々子はそれを意に介さない。世代の違いなのか、性格の違いなのか。福之助も典型的な、気楽に旅をする若者のように描かれている。島の伝統的な「正しさ」しか後ろ盾がないケンジは、立場としては不利なのだ。
ラストシーンは、衝撃的だった。なぜこれほどまでに、穏やかに淡々と、そしてにぎやかに幸せそうに終わっていけるのか。恵達もケンジも、両想いと言う「正しさ」は手に入れられなかった。しかし、それは優先順位が低くなることもある「正しさ」なのだ。ユタの言葉を守る宗教的な「正しさ」や、約束を守るという倫理的、法律的な正しさは、多くの場合で恋愛的な「正しさ」を凌駕する。だが、恋愛的な「正しさ」に従うことを私たちは美しい、羨ましいとも感じる。
私がこれまで出会った作品の中でも一番「倫理」を考えさせられたのが、この映画である。難しいことを考えなくても楽しめる作品なので、おすすめもしやすい。さあ、「ナビィの恋」を観よう。
参照
中江裕司「ナビィの恋」(1999)
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