多分私だけのアメリカ体験記

(注)2018年の記事です



 私は、半年間アメリカに住んでいたことがある。

 こう書くと留学していたのかとか、英語はペラペラなのかと思われるかもしれない。しかし、違う。

 私は留学していないし、英語も苦手だ。


気付いたらバージニア


 五歳のある日、私は飛行機に乗っていた。と言っても初めてのことではないので、特別はしゃいでいたとか怖がっていたとか、ではなかったと思う。ただいつもと違ったのは、なかなか飛行機が着陸しなかったことだ。

 いや、違うことはもう一つあった。おそらく成田空港(羽田だったかもしれない)は初めてだった私。普段全くそんなことは言わないのに、店に並んでいるおもちゃを見て「あれ、欲しい」とねだったのだ。母は、「帰ってくるときにね」と言った。まあ、それはそうだ、と私は納得した。帰りが、半年後になるとは知らずに……

 考えてみると、引っ越しの時も旅行の時も、両親は私に何かを説明した、という記憶がない。アメリカに移住という話も、おそらく私にしないままだったのだ。

 そんなわけでアメリカに着いた私は、おそらく自分がどこにいるかもわかっていなかった。


 ただ、なんかおかしいぞ、とは思っていた。乗り換えた小さな飛行機は、プロペラ機だった。乗るときも小さな階段から。一番後ろの席に座った家族三人。振り返った私は驚愕した。なんと、隙間から後ろが見えたのである。当時私は、飛行機も宇宙船や潜水艦のように、隙間があると駄目だと思っていた。隙間のせいで落ちるんじゃないか、私はビビっていた。

 もちろん落ちることはなく目的地に到着。さらに車で移動して、木造のアパートが私たちの新居だった。

 バージニア州、リンチバーグ。小さな町で、私のアメリカ生活が始まった。


アイドントノー


 アメリカはちょうど夏休みということで、私は学校に入らなかった。公園に行くと同世代の子供たちがいて、私に話しかけてくる。が、当然英語がまったくわからない。両親によって教えられたのは「マイネームイズ○○」「ホワッチャンネーム」「ハウオールドアーユー」「アイドントノー」の四つだけ。

「僕の名前は○○。名前何? 何歳? わっかんなーい」

 考えてみると厄介な子どである。とにかく困ったらアイドントノー。相手も諦めて、何も聞かずに一緒に遊具に乗ったり、砂遊びをしたり。そう、幼かったせいで「言語なしで通じ合える」ということを私は学んでしまった。


 帰国後、私がアメリカにいたことを知っている小学校の先生が、「さすが清水君、英語の発音がいい」と言った時は笑いそうになってしまった。四つの英語以外は全部日本で学んだのである。みなさん、海外経験があるというだけで、英語の発音がそれっぽく聞いてもらえます。


セサミストリートの日々


 ずっと外で遊んでいるわけにもいかない。私はレゴが好きだったので、レゴで時間をつぶしていたように思う。あとは、テレビ。近所の人が白黒テレビをくれた。とはいえ当然放送は英語。毎日観ているだけでわかるようになる……なんてことはない。

 観ているだけでわかる、トムとジェリーなどもやっていた。ただ、私が最も楽しみにしていたのはアニメではなく、セサミストリートだった。言葉はわからないが、見ていて何となく空気感が伝わってきた。特に私は、グローバーが好きになった。

 歌などで単語や数字をわかりやすく教えるのが、特徴の一つである。私がまず覚えたのは、スペイン語の数字だった。セサミストリートには、スペイン系の登場人物も結構出てくる。様々な人種、そしてモンスターの共存。セサミストリートは実にアメリカらしい番組だ。


 日本に帰ってきてもセサミストリートが好きで、しばらくは放送もしていたのでずっと観ていた。ただ、あいかわらず空気感で楽しむことを覚えてしまった私は、毎週観ているのに全く英語が身につかなかった。


ディズニーランドもピストルも


 小学校でよく聞かれたのが、「ディズニーランド行った?」「ピストル見た?」である。

 まず、バージニアからディズニーランドは遠い。ディズニーワールドの方が近いが、小学生はそんなことは知らない。いやそもそも、私の両親は日本でも、一度も遊園地に連れて行ってくれなかった。

 アメリカと言えばピストル。いやいや、もちろんそんなに簡単には見れません。銃の事件はやはり多かったようだけれど、私の住んでいた田舎町は平和だった。

 印象に残っているのは、飛行機墜落のニュースが多かったことだ。やっはり隙間があるからでは? と私は思った。


 あと。これはニューヨークでのことだけれども、牛乳パックに子供の写真が載っていたのにびっくりした。行方不明の子らしい。同じアメリカでも、全然違う経験ができる場所のはずだ。


大きなアメリカ


 アメリカにはいろいろな思い出があるけれど、やはりスケールの違いをよく感じた。スーパーの駐車場が広い。日本でペーパードライバーだった母は、そこで運転の練習をしていた。あと、たまにしか出会わない貨物列車は、永遠につながっているんじゃないかと思うほど長かった。

 出会う人々も、みんなの一般的な印象とは違っていると思う。トリリンガルのプエルトリコ人のおじさん。みんなの会話を通訳してくれるのだが、たまにずれてしまって、スペイン語で説明されて父が困っていた。イスラム系のお金持ちのおじさんは、湖の別荘に招待してくれた。一緒にいた人に、「彼に足を洗ってもらったのは世界で君が初めてじゃないか、ハッハッハ」と言われた(らしい)。


 小さいときに、いろんな人々と知り合えたのは幸せだと思う。ちなみに父の同僚は、「アメリカ人が呼びやすそうだった」ということで、生まれてきた子供に私と同じ読み方の名前を付けたらしい。海外に住むなら、そういうところも重要かもしれない。


そして約束の


 帰るときは、さすがに知らされた。というか、近所の人が記念の品をくれたので、私の知るところとなったような気がする。

 ここに書ききれないたくさんの貴重な体験をして、私は半年分以上に成長したと思う。なかなか信じてもらえないのだけれど、哲学的思考に目覚めたのもこの頃だ。

 ただ、帰国する私にとって最も重要なことは、あの約束であった。子供の局地的記憶力は侮れない。はっきりと、半年前のことを覚えていた。

 成田空港で、もちろん私は言った。「約束だよ、買ってよ」「……」ガン無視である。この子何言ってるの? という視線である。私は、騙されたことに気が付いた。半年もたてば忘れるだろうと、守るつもりもない約束をされたのだ。

 私は、ここでも一つ、大人になった。


 ちなみにこのことについては、数年前に初めて確認した。「もちろん覚えていたし、忘れると思ったから」母はさらりと言った。私は倫理についても、あの時考えるようになった気がする。まあ、これについてはアメリカではなく現場は日本なんだけど。


半年もいたのにそれっぽくない人として


 私がアメリカにいたことを知っている同級生は、「帰国子女だー」などと言っていたが、多くの規定でそれにあてはまらない。半年は短いし、現地の学校にも行っていない。私にとっては長い長い夏休みのようなものだった。

 また、リンチバーグはあまりにも「みんなの想像するアメリカ」とは違う。私の中ではアメリカでの思い出というよりは、「リンチバーグという地方での思い出」である。


 英語も話せない、ディズニーランドも行っていない。友達の期待に応えられないけれど、思い返すたびに貴重な体験だったと思う。



初出 note(2018) https://note.com/rakuha/n/n5eb9c1abddd2

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