三方一両損を考える

(注)2014年の記事です



 今年は授業で、「三方一両損」について考えてみました。


 この話、簡単に言うと三両落した人と拾った人がお互いにお金を受け取ろうとせず、大岡越前さんが「私も一両出して二人で二両ずつもらいなさい。三人とも一両ずつ損したこことになるだろう」と言って丸く収まる、というものです。


 この話を元に、質問するわけです。「二両ずつ渡されて、残ったのは四両。三人が一両ずつ損したのならば、元は七両ないとおかしいのではないか?」


 実際には四両のお金しか登場しません。残りの三両は「想定上のお金」を計算に入れてしまっているわけですが、哲学の授業なのでそれだけでは終わりません。


 つまり、拾った人はどうしたって得するはずなのに「二両だと損になる」と言ってしまうことが問題なわけですが、「こういうことは世間で結構起こっているよね」という話です。


 大岡さんは、それほど大きな嘘をついたというわけではないし、身銭まで切って丸く収めたのだから立派だと思います。ただし、やはり「三人とも一両損をした」かどうかについては、検討の余地があるわけです。哲学はここで、計算の仕方をはっきりさせようなどとはしません。「損とは何か」について考えるのです。


 見方によっては落としたのに二両戻ってきたのは「得」であるし、二人ともいらないと言っているのだから大岡さんが没収できたところを一両出したというのは「大損」かもしれません。私たちは実際のお金の動きのみではなく、「将来期待されるお金」を含めて得とか損とか考えることがあるようです。


 落とした人も拾った人も「お金はいらない」と思っていたのですから、零両でいいという決意があったわけです。そこから考えると、二両手元にあるのは「+2両」です。三方一両損というのはあくまで大岡さんの主観であって、「事実にそう名付けるのがふさわしい」かはわかりません。


 ここまで読んで「結局結論はどうなってるんだ」と思うかもしれませんが、「なんだかよくわからないことを考えると新しい可能性が見えてくるかもしれない」と思ってもらうのが狙いです。本当に正しい「損得」というのは、哲学では見つけられません。しかし損得の概念について、疑ってみることができるというのは本当のことです。


 私はこのように幼い頃から落語を聞いていてもいろいろと疑問に思って考えてしまう人間だったわけですが、どうかそういう子供を見つけても「どうしようもない変な奴だ」とか「強制しないと」とは考えず、「哲学的な才能があるかもしれない!」とポジィティブにとらえて見守ってあげてもらえないでしょうか。



初出 note(2014)https://note.com/rakuha/n/n3b16d1fc5880

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