タイトルという自由(詩について)

 幾つか、写真に数行の詩を付けるという投稿をしてきました。短い作品の勉強に、ということもあったのですが、もう一つ実験的な考えもありました。

 タイトルが、ないのです。

 写真がタイトル代わりという考え方だったのですが、それを抜きにしても違和感のない方が多かったのではないかと思います。


 「アマチュア創作と倫理」という授業を今年度までしてきましたが、その中でネット詩についても取り上げ、インターネットと詩について考察してきました。インターネットの普及により詩を公開することが簡単になったのですが、詩の「形」も変わりました。まず大きくは、「横書き」になりました。また、背景を工夫できるようになりました。紙の詩誌などとは、見え方も見せ方も変わったのです。

 ブログの登場により、より手軽に詩を発表できるようになりましたが、基本的にはそれほど詩の形は変わらなかったと思います。しかしSNSの流行によって、新しい形の詩が登場し始めました。

 mixiに詩のコミュニティがいくつかできて、その中で詩を書く人々の交流が生まれます。お題が決まっていたり、三行詩や短詩、写真詩といったスレッドがたてられます。このようにしてテーマを決めて多くの人が参加することもある種新しい流れだったと思いますが、私はもう一つ注目している点がありました。それは、タイトルのない詩が多く投稿されていたことです。mixiコミュニティのコメント投稿ではタイトルを入力する欄がありません。そのため、タイトルが無くても何も問題なく投稿はできるのです。しかし昔から詩を書いてる人にとって詩にタイトルがあるのは当然で、もちろんタイトルを付けた作品も多くありました。

 そんな中、そのことが少し交流の掲示板で話題になって、「タイトルが無ければならない理由がわからない」と言っている人がいました。私はなるほど、と思ったのです。確かに詩にタイトルがあるべき、というのは過去の作品がそうだったからであり、これからの作品にも必ずあるべきかどうかは確定していません。そしてSNSで初めて詩を書く人にとっては、タイトル欄がないのだからタイトルを書かない、というのは普通のことかもしれないのです。

 そしてツイッターに至っては、その短さからタイトルがないのが当たり前になります。それどころか、長い間改行もできませんでした。しかし140文字という制限を楽しむかのように、タイトルのない、短い詩たちがたくさん生み出されていったのです。

 これらの動きは、詩が場に合わせて変化したともいえますし、場から生み出されるものが詩になっていった、ととらえることもできるかと思います。自分では気づいていなくても、詩のようなものになっている投稿やツイートもあると思います。新しいツールの誕生により、新しい表現の可能性が生まれる。当然のようですが、その誕生の瞬間をいくつも観られているという事実には少し感動もします。


 横書きなことも、タイトルがないことも、改行がないことも、詩にとっては普通のことになりました。むしろ縦書きでタイトルがあって改行するということは、「意識的にわざわざ選ぶ」ことになったと言えるかもしれません。noteは比較的柔軟性のあるツールなので、トークでツイッターのような、テキストでブログのような、やろうと思えばイメージで手書きの作品を投稿することもできます。簡単に公開できるようになっただけでなく、インターネットは詩に様々な「形」を与えてくれたのです。

 私はこれまで、できるだけ詩にタイトルを付けてきました。しかし、付けないなら付けないで問題がない、とも考えています。写真をタイトル代わりにする試みはこれからも続けてみたいと思いますし、他にもいろいろな形を試してみたいと思っています。



初出 note(2015) https://note.com/rakuha/n/n81dda0e7d179

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