天国よりも遠い場所
今日はすでに三件だ。食品メーカーが二つに、出版社が一つ。
僕は憂鬱になりながら、観覧車から昼下がりの景色をぼうっと見つめる。視線を真っ直ぐにすると太陽の光が煩わしいので、下の方に視線を落とす。ここから少し離れた場所に、誰一人通ってない商店街のアーケードがあることに気が付いた。あまりここら辺の道には詳しくないので、新しい発見だった。しかし、開いている店が一つもなかったので無意味な発見でもあった。
この観覧車がある大型ショッピングモールは、沢山の小さな幸せを踏み潰しながら、大きな利便性と話題性を築き上げたのだろう。そのことに気付いてしまった僕はため息を吐き、さきほど詳細が来た四件目について考える。
僕の仕事はクレーマーである。依頼人から文句を請け負って、会社や組織にその文句を代弁する仕事。この現代社会において、クレームを入れる側にも責任が生じる。それを嫌がる人たちの代わりに泥をかぶり、お金をいただくビジネスだ。正直に言うと、あまり稼げるわけではない。しかし、適当に就活をしてしまった僕には、この仕事しか道がなかった。自分の人生で、もっとも大きな失敗だ。
少しだけ自分語りをすると、僕には苦手なものが二つある。
一つは人参だ。あの独特な匂いがどうしても受け付けなくて、嗅いだだけで吐き気を催してしまう。食感も駄目で、生だと硬くて食べられない。調理しても芯が残っている。かといって限界まで煮込んでも、口の中で人参が散らかってしまう。人参が入っている野菜ジュースも、もちろん駄目だ。あれは人参の嫌な風味が忠実に再現されているからだ。正直、人参を好んで食べたり飲んだりしている人間はどうかしていると思う。
もう一つは人間だ。僕はいわゆる対人恐怖症で、人間がとにかく苦手だ。これは僕が物心ついた時からそうで、成長するにつれてどんどん酷くなっていった。
小学生くらいの頃は、ただ話しかけるのに準備が必要な程度だった。中学生になってから、それが原因でいじめにあい、人を見ると身構えるようになった。高校では自分勝手なクラスメイトが、僕の対人恐怖症を無理矢理治そうとしてきた。そのせいで僕は不登校になり、人を見ると蕁麻疹がでるようになった。頑張って入った大学では、厚かましい人間どものせいで、急性アルコール中毒を経験したり、うつ病になったり、人と長時間直接会話していると吐いてしまう体質になったりした。
観覧車に乗っている理由も、対人恐怖症が原因だったりする。ここなら誰とも関わらなくてすむし、近くに人間がいない。この付近では、僕が安心できる唯一の場所だ。トイレは駄目だ。あそこは人の気配がするし、便器を見ると吐瀉物を連想して嘔吐してしまう。個室のネットカフェも、隣に人間がいると思うと軽いパニック状態になる。だから僕が外で安心できるのは、此処しかない。空ならば全てのしがらみから解放され、自由でいられる。空に人はいないのだから。観覧車に乗っている他人もいるにはいるが、僕が乗っている場所まで侵入することはできないし、もし侵入されても、突き落とせばいい。
そんな僕が何故、クレーマーという仕事をしているのかというと、先程述べた通り就活を真面目にやらなかったのもあるが、対人恐怖症を治したいという理由もある。この仕事は、人と直接会って話すことは一切ない。クレームは、電話やメールで伝えるものだから。こればかりは現代の技術に感謝するべきだろう。ひと昔前だったら、直接会社に行って文句を言わなくてはならなかった。
人に会う必要はないが、人とコミュニケーションを取らなくてはいけない仕事。そして、人のためになる仕事。だからこそ、僕はクレーマーになったのだ。それに、この今の社会に、僕をこんな状態にした世の中に、一矢報いたいという気持ちがないでもなかった。僕は対人恐怖症だが、人間を愛している。それと同時に、人間を嫌悪しているのだ。
世の中に文句があるのならば、是非株式会社モンスタークレーマーにお電話を。そんなコマーシャルを地方のラジオで聴いた時、天啓だと思った。しかし、現実は甘くなかった。
僕の想像以上に、僕の対人恐怖症が酷かったのだ。本来、モンスタークレーマー社はオフィスで電話をするのだが、周りに人がいると僕の身体が保たないので、僕だけ特別に外で仕事をすることが許されている。だから僕はこんなところにいるのだ。普段は観覧車、休みの日は自宅の押し入れが僕の居場所である。
ここまで僕に優しくしてくれる会社はないだろう。だからこそ結果を残し、貢献したいが、いざ本番となると、中々どうしてうまくいかない。震えながら電話をかけ、錆びきった脳を無理やり回転させて言葉を浮かべ、色んなものが絡みついた喉から声を絞り上げ、大きな耳鳴りを掻い潜りながら通話相手の声を拾う。この苦行を繰り返すのだ。毎日生きた心地がしない。しかし、少しずつだが、話せるようにはなってきている。懇意になっているカウンセラーからも、この調子で頑張りましょうと言われた。僕の人生はマイナスだが、着実にゼロへ近づいているのだ。
もう一度、観覧車からの外をのぞく。先ほどより高い位置にゴンドラがあるため、より遠くの街並みが見える代わりに、真下の詳細がわからなくなる。僕はこの景色が大好きだ。世間から離れていく気がするから。
天国の景色は、この観覧車からの景色と、そっくりかもしれない。まあ、天国は観覧車と違って、人が多そうな場所だから、僕にとって地獄であるけれど。
僕は再びため息を吐き、会社用の携帯を開く。メールに記載されてある電話番号をおぼつかない指で入力し、三度深呼吸してから電話をかけた。
頭の中で自分語りをしていたら、言いたいことを整理できた。ならば、さっさと四件目の仕事を終わらせてしまおう。
天国よりも遠い場所から降りるまでに。
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