七時間目
今日は表情が豊かだね、と親に言われた。自分でも気づかないうちに、顔に出ていたらしい。それも仕方のないことだろう。
僕はあの時間が好きだ。数人の生徒たち、ノートのページをめくる音、外から聞こえる部活動に勤しむ生徒たちの声、始まる前に女子たちがばら撒いた香水の香り、そんな空間のなかで先生は授業をする。それが僕の楽しみにしている、七時間目の情景だ。
七時間目、それは先生が個人的かつ非公式で不定期に行なっている授業のことだ。取り扱う授業の内容は様々で、ただの自習から動物の解体まである。もちろん学校への許可はとっていないので、授業の開始場所はバラバラだ。なので授業へ参加するためには、先生に直接日時訊くか、校内の噂を信じて向かうしかない。
けれど開始時間はある程度決まっており、必ず放課後から午後九時までの間に始まる。七時間目と銘打っているので、六時間目が終わってからなのは当たり前だとして、なぜ午後九時までに始まるのかというと、学校が午後十時に完全閉鎖するからだ。そして授業は基本五十分間行う。先生は法律や常識を破ることがあるけれど、この時間帯だけは守る。何故か理由を聞いてみたら、生徒の安全を守るために早めの時間に帰したいから、と仰っていた。もっと他に守るものがあるだろう、とは言えなかった。
僕は六時間目までの授業も真面目に受けた。実に退屈でつまらなくて平凡な授業だった。けれど僕にとっては簡単ではなかった。僕は背伸びをしてこの学校に入ったので、授業についていくので精一杯なのだ。
僕は帰りのホームルームが終わってすぐに、四階建ての新校舎の、一番上にある教室へと向かった。僕の通っている
それより古い旧校舎は、あちこちにガタが来ていて滅多に使われない。何故取り壊されないのかというと、歴史的価値があるらしいからだ。歩くたびにギィギィと動物の鳴き声のような音が聞こえる床板や、割れた窓ガラスが散らばっている一部の教室などに、歴史的価値があるとは僕は思えない。早く取り壊して、また新しい校舎を作り直せば良いのに。
目的の教室へと着いた僕は扉を開けた。まだ授業が始まるまで時間があるので、席に着いてからゆっくり準備をしよう。教室には既に何人か生徒がいて、見知った顔も見えた。僕は荷物を適当な席に置いてしばらくしてから、暇だったのでその顔に近づいて話しかけた。
「やあ、今回も居るんだね。もしかして先生のファン?」
僕は、前髪を斜めにバッサリと切った髪型が特徴的な、長髪の女の子に話しかけた。彼女は僕のクラスメイトだ。休み時間はいつもイヤホンを付けていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出しているけれど、今はイヤホンをしておらず退屈そうに黄昏ていたのでつい話しかけてしまった。前回見たときは、積極的に授業へ参加していたので、多分僕と同じタイプの生徒なのではないかと思う。日常に退屈していているところへ、先生が非日常を教えてくださり、七時間目の生徒になる。そういう人は少なくない。僕は友達が片手で数えられるほどしかいないので、そういう人とは是非お友達になりたい。
「別に、時間があっただけ」
どうやら道のりは険しそうだ。けれど僕はめげない。勝負事には負けても良いけれど、自分には絶対に負けないでくださいと、先生は僕に教えてくださった。だから僕は次の会話を、無い頭で頑張って絞り出そうと考える。しかし天気の話しか出てこなかった。仕方ないので今日は良い天気だね、と言った。彼女はそうね、と答えてくれた。僕の気のせいかどうかわからなかったけれど、少し笑っていた気がする。外は曇天だった。
ガラガラ、と扉が開く音がした。黒いスーツと黒いワイシャツに黒いネクタイ、さらには黒い革の手袋と全身真っ黒な服装に、絹糸のように真っ白い髪と鷲鼻が特徴的な男性が入ってきた。僕はまたね、と長髪の女の子に言ってから、自分の荷物が置いてある席に座った。
「では、七時間目を始めましょう」
低くて遠くまで響き、それでいて聞いていると落ち着く声が教室を支配した。先生が教壇に立った。先生の瞳は相変わらず腐ったドブ川のように濁っており、感情が上手く読み取れない。
「今日は道徳の授業です。皆さんの言葉が重要ですので、是非意見を述べてください」
先生はそう言ってから黒板に、ある言葉を几帳面が伝わるくらい綺麗な文字で書いた。
なぜ人を殺してはいけないのか。
句点までしっかり書き終えた後に先生は説明をした。思春期真っ盛りの皆さんなら、一度は考えたことはあるでしょう。人殺しは昔から大罪として扱われています。ですが、明確にやってはいけない理由を教えられたことはないと思います。窃盗や器物破損、わいせつ行為とは違う何かがある。なぜ殺人は罰せられるのか。今回はその理由について、一緒に考えていきましょう。では、まずは真っ先に何か思いついた人はいますか? 中々に重い話題ですが、気軽に思いを伝えてください。
先生はしばらく待っていたが、僕たち生徒は誰も手を挙げなかった。それもそうだろう。いきなり人を殺してはいけない理由を述べろと言われても、簡単に答えが出ることではない。
僕は考える。しかし、人を殺してはいけないという法律があるから、というつまらない理由しか出てこなかった。では法律がなかったら人を殺して良いのか? それは違うだろう。きっと他に何か確たるものがあるはずだ。僕が悩んでいるいたら、前の方にある席に座っていた生徒がゆっくりと、自信なさげに手を挙げた。先生は表情を一つも変えずに、素晴らしい、君は非常に勇気がある。誰も手を挙げない中挙手するのは賞賛に値します。その勇気は大切にしてください。ではどうぞ、と言った。僕には本音か建前かわからなかった。
「自分が殺されたくないからです」
前の方にいた生徒は恥ずかしそうにそう言った。たしかにそうだ。僕も殺されたくはない。だから人を殺してはいけない。人にやられて嫌なことはしてはいけない。これは実にシンプルでわかりやすい。しかし、それは間違っていると思った。僕は手を挙げた。
「では、死にたい人は殺しても良いんでしょうか? その理由は間違っていると思います」
クラスに毎日死にたい死にたいと言っている生徒がいる。その人のことを考えると、必ずしも人は殺されたくないと思っているわけではない。と思わざるを得ない。
「そうですね。殺してほしい、自殺するのを手伝ってほしい、と頼まれて協力することは同意殺人や自殺幇助といった罪です。これらも罰せられてしまいます。つまり死にたい人を殺してもいけない、という訳です」
前にいた生徒は顔をうつむかせてしまった。気持ちはわかるが、彼は恥ずべきことなど一切ない。自分の意見をしっかり持ち、そして一番最初に投じた。僕にはできなかったことを成し遂げたのだ。
「他に何か意見はありますか?」
僕たちは誰も手を挙げなかった。それもそうだろう。多くの人が、手を挙げた彼と同じような意見を持っていたに違いないのだから。
「では、少しお話をしましょうか」
かなり長い時間待っていたが、誰も手を挙げなかったので、先生が話を始めた。時計を見ると、授業が始まってから、既に三十分以上経過していた。
「まず、殺人を犯した際に発生するデメリットについて考えましょう。法により裁きを受けるのは勿論、遺族からの報復、経済的又は社会的損失などなど、色々あります。では、それらのデメリットがなかったら、法により殺人が容認されていたら、人々はどうすると思いますか?」
僕は手を挙げて、人は殺人をすると思いますと言った。
「そう、人は簡単に人を殺しはじめる。堕胎は日本で毎日行われているし、オランダなどでは安楽死法というものがあります。これらは立派な殺人行為です。戦争や死刑なども同じですね。また、イジメやパワハラも精神的な殺人です。しかし、それらを裁く法律は日本にありません」
僕は息を飲み込んだ。なんて恐ろしいことを仰っているのか。たしかにそうだが、それを言ったらお終いだ。この人は、僕たちに何を教えようとしているのだろう。何かとんでもないことのような気がする。不安になって、特徴的な前髪の女生徒をチラリと見た。彼女は仏頂面で毛先をいじっていた。ちゃんと話を聞いているのだろうか。
「つまり、実は殺人をしてはいけないなんて理由はないんです。殺人はすでに容認されています。罰せられません。なので皆さん、これからはどんどん人を殺しましょう。人を殺せる職業につきましょう」
目を一切動かさず、口だけでニッコリと先生が笑った。僕は今すぐに教室から逃げ出したくなった。
あまりにも怖い。僕は冷たくて、それでいてネットリしている何かが体にへばりついている感覚に襲われた。このまま飲み込まれてしまうのだろうか。逃げたくても動けない僕には、待つことしかできない。
「センセ、冗談へた」
ふと、そんなぼやきが聞こえた。聞いたことのある声だったので、凍りついた頭を回転させて思い出す努力をする。その声の主が、特徴的な前髪の女生徒だったと思い出すまでには、そこまでの時間はかからなかった。
「おや、ダメでしたか。場を和やかにしようと精一杯頑張ったのですが」
「へたくそ」
僕は何を言っているのかよくわからなかった。何故先生と女生徒は笑っているのか、何故さっきの言葉が冗談だと思えるのか、意味不明だった。
「僕もまだまだですね。七時間目は笑顔の絶えない授業にしたいのですが、上手くいきません」
冗談にしてはタチが悪すぎる。先生は時々、常識というものが欠如する。そこが先生の素晴らしいところでもあり、恐ろしいところでもあるのだけれど。どうやら今回は悪い方向に向かったようだ。
先生と女生徒の奇妙なやりとりで、僕を覆っていた何かはじわじわと溶けた。
「では、話を戻しましょうか。殺人をしてはいけない理由、それはありません。ですが、そのことを知った貴方たちは人を殺したいと思うでしょうか。多くの人は思いません。たとえ容認されても、ダメだと思う。それは何故かわかりますか?」
あたりがしんと静まり返っている中、特徴的な前髪の彼女が、まっすぐ手を挙げた。その姿は凛としていて、僕には眩しかった。
「わからない」
先生は拍手をした。僕の頭はパンク寸前だ。
「その通り、わかりません。その答えに辿り着くには、人間の歴史は短すぎます。しかし、諦めずに考えてください。諦めてしまったら、君たちは生きる屍です。さっさと死になさい」
では、今日の七時間目を終わります。先生はそう言って、教室から出て行った。そしてすぐに、例の女生徒も出て行った。
先生と彼女以外の生徒たちは、金縛りにあったかのように動けなかった。怒涛の授業を飲み込むには、時間が必要だった。
僕が帰れるようになった頃には、空はすっかり暗くなっていた。帰り道、雲のせいで星が一切見えない夜空を見上げ、今日の授業のことを思い出した。結局、何故人を殺してはいけないのかはわからなかった。しかし、わからないまま放置するのは、もっと恐ろしいことだと僕は思った。僕はこの先も悩むだろう。しかし、考えるのを辞めてはいけない。この問題は、きっととっても大切なことだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます