第11話 蝉音の慕情 《文月の哀月…の巻》

 夏の陽射しは容赦なく照り、軒下に吊るされた白い生地をまぶしく輝かせております。

そのまぶしさに目を細め、うっすらと額ににじんだ汗を拭いました。

山々と空との境界線もくっきりと極まり、白いもくもくと競りあがった雲が勢いを増しております。

毎年・・・夏越しの祓いを終えると、我が家では避暑をかねた静養に出かけます。

これは御爺様をお尋ねするのと、家の者への少しばかりの“いとま”という思いやりとでもいいましょうか・・・。

京都の貴船という所は山深き所であるがゆえ、何かに守られ抱かれるような安堵感と静寂が都とは一線を引いているように感じられる場所でございます。

わたくしにとって不思議で、特別な場所で、幼き頃から何度も訪れている懐かしい場所でもあり、自分だけのとっておきの美しさを秘めた神秘的な場所でございました。

山の空気は冷んやりとして心地よく、幼き頃は小さな小川で水遊びをしたり、虫を観察したり、とにかく飽きることの無い大きな大きな遊び場で、いつもとは違う様々な遊びや発見が毎日あって全然飽きないのですから・・・。

父は釣りに出かけたり、近くの寺の和尚と話し込んだりと、全く構ってもくれませんでしたが、かえってその方がわたくしは心置きなく振舞えました。

家の者たちも乳母も日常から離れとても楽しそうですし、わたくしは小さいながらにもここに来ると、皆が大らかで優しくなるのを敏感に感じ取っておりました。

こういう“息抜き”というものが、人間には必要なのでしょう。

今年もここ貴船にまいりまして、その翌日の出来事でございました。

午後、懐かしく山道を歩いておりますと、道の横には幸いにも清水が湧いているところがありましたので手で冷たい水をすくって喉を潤しました。

(ああ・・・なんて冷たくて美味しい水だろう。)

気が付くと両脇の大木にたくさんの蝉が止まっており、一斉に鳴きだします。

その羽音は、目を閉じると自分の頭の上から鳴き声が降ってくるようでした。

(蝉しぐれか・・・。圧巻だな。)

その泣き声は不思議と、わたくしを迎え入れてくれているようでございました。

心地いい風が枝葉を揺らし、蝉しぐれが納まったとき自分と同じように目を閉じてその泣き声に聞き惚れているもう一人のお方が目に飛び込みました。

「見事な蝉しぐれでございました。」

「ええ。圧巻です。」

そのお方は、薄い絽の布のたれがついた笠をかぶっておられました。

絽の布がそよそよと揺らぎ、涼しさを醸し出しております。

「景時様、今年もこちらにおいででしたのですね。」

その口ぶりは、どうやらわたくしをご存知の方のようです。

「わたくしをご存知なのですか?」

「ええ・・・。幼い頃によくここ辺でお遊びになって・・・。」

「これは申し訳ございません。一年に一度、夏の祓えを終えてからこちらにまいりますが、あなた様のことは失念しておるようで・・・。」

「それも当然のことですわ。幼き頃に一度お目にかかってから、しばらくこちらに参りませんでしたから。もう・・・10年ほど経ちますかしら?」

そうお聞きしてホッと致しました。

相手が自分を知っているのに、自分だけ知らん顔はできません。

相手が女性なら尚更。

「小さい頃、ここらの村の子どもたちの何人かと遊んだこともございましたの。こうして何年かぶりに再会したと言うのは、大変心躍ることでございます。景時さま、笛はお持ちですか?」

そのお方が懐から笛を取り出しておられましたので、わたくしも取り出しご一緒させていただきます。

そのお方はわたくしの旋律に添うように、引き立てるようにと絶妙に調和を計りながら、即興で吹き始めたのでございます。

こういう感覚は解る方には解ると思うのですが、何かをつくり上げる時、一瞬、心が重なった!と思う瞬間があるものなのです。

そのあ・うんの呼吸といいますか・・・。

なぜかわたくしには、その感覚がはっきりとわかりました。

即興で人の曲に合わせる・・・というのは、よほどの技量か優れた感覚を持っておりませんと難しいものです。

先ほど一斉に降り出した蝉しぐれも今は、この素晴らしい音色に静まり返っておりました。


 しばらく二人で夢中になって、音色を重ねておりました。

「私、もう戻らねばなりません。明日またここでお会いできますか?」

「ええ、喜んで。わたくしは十日ほどこちらにおります。」

「それは、それは・・・。」

気のせいか、そのお方は少し淋しげな声でおっしゃいました。

「では、また明日。」

急にあわてて帰ろうとする方に、慌てて聞きます。

「はい、またお会いしましょう。お名前は・・・?」

「蝉音(せみね)と申します。」

そう言って、わたくしは蝉音様と別れ、御爺様の元へもどったのでございます。

 翌日も、その翌日も・・・毎日、毎日わたくしは蝉音様とここで笛を吹くのを楽しみにしておりました。

そして、七日ほど経った時、急ににわか雨が激しく降ってまいりました。

いくら木々が茂っていても、雨をしのぐことはできません。

しばらく待っても止まない雨に、蝉音様は困り果て

「むさ苦しいところでございますが、私の家においでくださいませ。少しは雨露をしのげるかと・・・。」

そう言われると同時に、わたくし達は雨の打ち付ける中を走ったのでございます。

雨は突き刺さるように体に降り注ぎ、結局はびしょ濡れになってしまいました。

「こんなに強いわか雨は珍しいのですが・・・。」

そういって蝉音様は、濡れた物を乾かそうと火を起こしはじめます。

夕立は止む気配もなく、降り続いておりました。

一生懸命に火をおこし、濡れた衣服を干し、少し疲れた様子の蝉音様が

「景時様、少し気分がすぐれないので、少し休ませていただいてもよろしいでしょうか。」

「ええ。わたくしの事は気になさらずに。雨が止みましたらおいとまを・・・。」

そう言ったものの蝉音様の顔色は事のほか悪く、このまま息途絶えてしまうのか?と思われるほどでございました。

具合の悪そうな蝉音様の額の冷や汗をぬぐって差し上げます。

(なんと・・・抜けるような肌の白さであろうか・・・。)

儚いような白い肌でございました。

蝉音様は

「私にはどうやら時間が無いようです。包み隠さず申し上げます。私、初めて景時様をお見かけしてから、ずっと心に秘めておりました。あなた様のことをお慕い申し上げていることを・・・。初めてあなた様にお会いしたのは、たしか7つぐらいの頃でしたでしょうか。

小道に落ちている蝉を、拾い上げて“お父様、蝉が弱っています”とおっしゃいました。

父上様は“捨て置け。そのまま逝かせるのだ。”とおっしゃいましたが、あなた様はそうもできず、道の脇の草の上に置いて、そっと手を合わせられました。その優しいお心に感激いたしました。私はその日以来、あなた様をお慕い申し上げておりました。」

「そんなことがあったのを、わたくし自身あまり記憶にないのですが・・・。しかし十年余りも土の中で暮らし、やっと出てきたかと思ったら、7日ほどで死んでしまう。そんな蝉が哀れでたまらないのです。ただ、それだけです。」

白く細い指をか弱く伸ばし、わたくしの手を求める。

思わずその手を包み、わたくしは自分の頬にあてがった。

「自然の成せることなのでどうしようもありませんが、せめて手を合わせることくらいというその優しいお心は、景時様そのものですわ。何十年も、この思いを秘めておりましたが、今日その思いを告げられて報われました。こうして景時様と再会出て、こうして看取られる幸せのまま、また生まれ変わってお会いしたいと願います。」

蝉音様はそっと目を閉じて眠り、一筋の涙を流されました。


 どうやらわたくしは一晩、蝉音様に付き添って、いつのまにか寝込んでいたようでございました。

火は消え、雨は止み、朝靄が帰り仕度をしているような夏の日の短い涼やかな朝でございました。

蝉音様の姿はなく、薄い絽のついた笠だけが掛けられておりました。

「蝉音様~!」

呼んでみましたが、誰もその問いに返事をしません。

その代わり、蝉しぐれが一斉にわたくしに降り注いでまいりました。

いつになくたくさんの蝉たちが、いつになく大きな鳴き声で泣いているように聞こえたのでございます。

小屋に残された絽の布がそよそよと揺らぎ、その透ける美しさは蝉の羽のように儚く、薄く、蝉音様の心に秘めた思いそのままのようでございました。

(蝉の羽音はこの薄い羽の産み出す奇跡なのだろうな・・・。)

短い命と知りつつ一生懸命伴侶を探す蝉の、ひたむきな一途な思いを知ったわたくしでありました。

(一人の人を・・・それも一度会っただけの人を10年も一途に思い続けたことがあるか?)

自分に問うてみても、答えられません。

そのような経験をした事がない者には・・・。


 蝉音様に短いお別れをし、御爺様の所へ戻ったその朝・・・

またまた朝帰りをしたわたくしを待っていたのは、お初の意味ありげな視線だけでございました。

もみじは、

「あの旋律は感慨深き調べよのう・・・忘れられぬ。」

いつになく静かに申しました。

命短き者の、一途な思いは何者をも黙らせるのです。

いつか、あの旋律を譜に起こしてみたいような・・・はたまた自分の心の中にそっとしておきたいような・・・複雑な気持ちでございます。

                            景時 記



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