第8話 すみれの面影 《卯月の母月…の巻》
このところの温かな陽気に油断してしまったせいでしょうか?
わたくしも久々に体調を崩しまして、床に伏せっておりました。
その時のお話をいたしましょう。
三寒四温と言う言葉通りに温から寒になるその日、背中に悪寒が走りました。
食事も満足に取れずに早々に寝込んだのですが、夜中にどうも喉が渇くので起きだして水を飲みました。
まだ、背中の悪寒は取れず急いで寝所に戻ろうとしましたところ、家の者たちがなにやら縫い物などをしているようで、戸の隙間から小さな光と話し声が漏れてまいりました。
「景時様は、いつもこの頃に体調をくずされますなぁ。」
「ええ・・・。小さい頃は数日寝込むことも度々でしたもの。」
「今日も、お顔色も良くなく・・・。食欲もあまり無いようでした。」
「私、明日薬草を摘みにまいりますわ。」
「そうですわね。昔から景時様に良く効くあの薬草があるといいのですが・・・。」
家の者たちは小さい頃からのわたくしを良く知っておりましたので、どんな薬草が効くとか、こんな症状の時には・・・というような秘策で小さい頃からわたくしの身を案じてくれていたのです。
それを今宵知ることになり、改めて感謝いたしました。
しかし・・・こんな体がばらばらになるかと思うような悪寒は初めてでございました。
翌日・・・
目を覚ましたのは、日が高く昇った頃でございました。
家の一番の古株の“お初”という者が、けったいな匂いの薬湯を持って現われました。
その匂いは忘れたくても忘れられない強烈な匂いですが、味はそれほどでもなく、鼻をつまんで飲めば飲めないこともないのです。
それが実によく効くのが少々口惜しいのですが・・・。
小さい頃はよく、飲み終わるまで“お初”にじっと見張られておりました。
「お加減は、いかがですか?」
「ああ・・・。昨日よりは少しは落ち着いたが、悪寒がひどくてなぁ。」
「そうでございますか。懐かしい匂いでございましょう?これをお飲みなさいませ。」
「相変わらず・・・何とも言えない匂いだな。」
鼻をつまみながら言うわたくしに、お初は笑顔で
「ええ。でも、よく効きますのよ。」
と言った。
「小さい頃からよくお世話になったからよくわかっている。」
「ええ・・・。」
そういってうつむいたお初の額の髪はいつのまにかはっとするほど白くなっておりました。
(年月が経ったのだなぁ・・・。)
顔をしかめなあら、ゆっくりとその薬湯を飲み終わると、
「野に出てみたら、もうこんな小さなすみれが咲いておりました。可愛らしいものでしょう。あまりに可愛らしいので、景時様にお見せしようと持って帰りました。」
お初は小さなすみれの花を小さな鉢に植えて差し出しました。
すみれはどこか儚げではありますが、小さくとも濃い紫の花を凛と咲かせております。
何とも深い紫色は禁色であるがゆえの高貴な気品のある色であると同時に、その神秘性から神の色とも言われ尊ばれている色でございます。
臥せっているわたしの身を案じて、慰めにと摘んできた思いやりが心に染みました。
「春もそこまで・・・というお告げだな。」
枕もとに訪れた小さな春に、心も少し活気づくように感じられました。
“お初さん秘伝の薬湯”のおかげで、その日の午後からは背中の悪寒も段々と和らいでまいりました。
夕餉に少し、重湯をすすりまた深い眠りに入ります。
なぜか・・・遠くで、誰かが泣いています。
夢か現実か・・・?と迷っている間に、夢ではないという証拠を示すように、わたくしの顔にその涙がポトリと落ちたのでございます。
ハッとして目を覚ますと、部屋の隅に一人の娘が袖を濡らして泣いておりました。
「どうなされたのですか?」
自分の寝所に現われた娘に、どうしてここに居るのか?という疑問より、どうして泣いているのか?という疑問が勝る。
娘は泣いてばかりで何も答えません。
どうしようもなく、とりあえず懐紙を渡して涙を拭くように言います。
「涙をお拭きなさい。一体どうしたのですか?」
「帰りたい・・・。」
一言そう申しました。
「どこに帰りたいのです?」
「ちち様、かか様、・・・みなのところに帰りたい。」
そう言われても、どこから来たのかもわからないのではどうしようもありません。
「どこに帰りたいのです?」
わたくしはさっきからこの質問ばかりしています。
わたくしにできるなら帰してあげたいのですが、場所も理由もわからないままではどうしようもありません。
「一体どこから来たのか教えてもらえませんか?」
「の」
「の?」
「の」
「野原の野?」
こくんとうなずきました。
野原から来たというこの娘は、一体何者でしょう?
もみじに聞こうにも、肝心な時には出てきません。
というのも最近体調が悪くて伏せっていたため、もみじのことですから構ってもらえず多分、ふて腐るか、いじけているのでしょう。
いつもいつも、もみじばかりを頼りにはしていられませんし、出てこないものは仕方ありません。
自分の体調もまだ完全ではない上に、事情もよく解らないこの娘をどの野原に連れて行けばいいのでしょうか?
娘の手を引いていこうとした時、その娘はお初が昼間に持ち帰ったすみれの植えられた鉢を持っていけとばかりに娘は無言で指差しました。
こうしてまだ夜空けには早い朝もやの中を、身元不明の娘(人間かどうかも怪しい)とともに門を出ることになってしまいました。
娘が道案内をするのでおとなしく付いていきます。
そうすると小川の土手につきました。
そこにはたくさんのすみれが咲いておりました。
小さいすみれがあちこちに一つの集落のように群生しております。
多分、お初はここのすみれの一株をわたくしのためにと持ち帰ったのでしょう。
持ち帰られたすみれは、家族や仲間と離れ淋しかったに違いありません。
やっと温かい陽気に目覚めて花を咲かせたとたんに、もぎ取られ家族とも離れ離れになってはやはり可哀想です。
わたしはそのすみれの群生の中へ、鉢の中のすみれを戻してやることにしました。
固く冷たい土をなんとか掘り起こしていると、周りは朝もやが立ち込めてあの世とこの世が混ざり合ったような不思議な空気が漂っておりました。
(何かに導かれるようにこんなところに来てしまったが、無事に戻れるだろうか・・・?)
そんなことをなるべく考えないようにしながらも、なんとか群生しているすみれの中に返してやりました。
すると、その娘は深く深くお辞儀をして紫色の薄衣をヒラヒラとさせながら消えていったのでございます。
(ああ・・・これでよかったのだ。)
お初の気持ちも十分すぎるほどありがたいのですが、やはり仲間といるほうが幸せと言うこともあります。
ある人間のため・・・としたことで悲しむものがいるというのは、本当の幸せではありません。
わたくしはお初に詫びながらも、娘の安心したような顔を見てほっといたしました。
朝日の訪れとともに朝靄も去り、わたくしは小川から水をすくってそのすみれにかけてやりました。
わたくしのお詫びとお礼の気持ちをこめてしたことです。
そのひと雫に、すみれがこくんと頭を下げたように見えました。
か弱きものが寄り添うことで、守りあい、慰めあうのでしょう。
“仲間”という連帯感の中で生きていくのです。
人間とて同じことです。
わたくしは辺りのすみれたちにも同じように水をかけてやろうと、土手の片方に足をかけて小川をまたいだその瞬間、足はぬかるみにズボッとはまり、なんとも無様な姿で水にバシャ-ンと尻もちをついて落ちました。
子どもの時以来こんな派手に水に落ちたのは久しぶりで、しばらくそこから動けませんでした。
やっとのことで、体勢を整えた自分の姿を見てこの上なく恥ずかしく、情けない気持ちでいっぱいになったのでございます。
全身ずぶ濡れで、ぬかるみにはまった片足と尻は泥だらけ。
どぶねずみのような自分をどうすることもできず、しかたなく、とぼとぼと歩いて帰ることにいたしました。
朝には行きかう人々が増え、人目もありますので兎に角急ぎます。
しかし・・・こういう見られたくない姿の時に限って、会いたくない人に会ってしまうものなのです。
見ず知らずの人なら、驚かれたり、指を指されたりしてもしょうがないでしょう。
しかし、お初にばっちり見つかってしまいました。
「景時さま!!」
そういうときの声は事のほか大きいものです。
家の者が集まってきました。
「どうなされたのです?」
「・・・。」
答えようがありません。
「まだお体もよくありませんのに、一体どこで何をしたらこんな姿になるのです?」
厳しい追及にただただ、しぼむだけのわたくしでした。
(すみれが・・・というのもなぁ・・・。)
そう思うと余計に言い訳などできませんでした。
「熱にうなされたようだ・・・。」
そんなことをつい呟いたものですから、家のものは
「陰陽師さまをお呼びしなければ・・・。」
などと言い出し、またまた大騒ぎになってしまいました。
「とにかく、着替えを・・・。」
そう言いとにかく一刻も早く着替えてしまいたい、どぶねずみのわたくしでした。
やっとのことで着替えを終え、温かい汁などをすすっているうちに段々と落ち着いて参りました。
「お初のおかげで体は良くなったようだ。体の悪寒も無いし食欲もでてきた。頼むからもう大騒ぎしないでくれ。」
「顔色も戻られましたし、一先ず安心いたしました。」
汁のお代わりをよそいながら、お初は日の当たった庭先を優しい目で見ておりました。
「どこぞの姫と一夜をお過ごしになったのならともかく、あんな姿で朝帰りされると寿命が縮みますわ。」
「悪かったなぁ・・・姫でなくて。」
「いいえ。遠慮はいりません。朝帰りなら・・・どんどんおやりなさい。」
ぶっと、汁を噴き出してしまいそうでした。
お初は
「朝帰りの秘訣なら・・・お話してもよろしゅうございますよ。景時様の今後のお役に立つなら。」
「・・・。まあ、その時は相談に乗ってほしいものだな。」
「おほほほ・・・。」
母のような存在のお初が、いつのまにか心強い相談役になっておりました。
「景時様・・・。覚えていらっしゃいますか?お母上さまもすみれがお好きだったのですよ。」
ふいに言うお初の言葉にはっと致しました。
わたくしの母は、小さい頃に亡くなっております。
母の思い出ばかりか、お顔さえ思い出せません。
ただ、ほんのりと奥ゆかしい香りだけは心の奥に生きております。
わたしくしの知らない母の思い出を語るお初に、どこか懐かしい母の匂いをかんじました。
母もこうして、わたしに小言をいったでしょうか。
あのすみれの娘の事が頭をよぎりました。
(家族の元へもどりたい・・・。)
父や母と引き離され、さぞや辛かったことでしょう。
わたくしにとって小さな記憶が残っているだけの母は面影もありませんが、
もちろん大切な方です。
そして、今は母代わりとなって育て気を揉んでいるお初もまた、わたくしにとって大切な母なのです。
自分を守ってくれる存在、見守ってくれる存在・・・そこには確かな愛があります。
わたくしは、つくづく幸せ者です。
お初はすみれをみて亡き母を思い出すように、わたくしもまた、すみれの紫色の花をみるたびに母の優しい香りを懐かしむことにいたします。
家族という存在のすばらしさ・・・自分を愛してくれている存在のありがたさをしみじみと感じたわたくしでした。
すみれも、今は家族とホッとしていることでしょう。
景時 記
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