第3話 銀杏の夢 《霜月の別れ月…の巻》

 夢というもの、これほど本人の自由にならないものはありません。

見たい夢が見れた事などなく、いい所で目が覚めたので続きを見ようとしても無理でございます。

悪い夢は散々わたくしを弄び、目覚めたときにはぐっしょりと寝汗をかいていて目覚めたことを嬉しくさえ思います。

しかし稀に、見たこともない至極の光景を夢に見ることがございます。

今宵は、そのお話しをいたしましょう。


先日、母方の親戚筋の家を訪ねたときのことでございます。

都から離れ、静かな田舎での余生を送っておられる大叔母様の元を久しぶりにお訪ねいたしました。

大叔母様はお年を召しておいでで最近は気弱になられているとお聞きしましたので、お励ましを・・・という気持ちもあったのでございます。

都を久々に離れ、幼き頃遊んだあの景色は今どうなっているだろう・・・?などと考えると胸が踊ります。

田舎での生活は自然の恵みにあふれ素晴らしいものですが、時々襲ってくる人恋しさが最大の悩みでしょう。

 景色と空気が大きく入れ替わり、深い山々の神気に満ちた空気に誘われます。

山々はあでやかな着物のような色彩をまとい、見事な秋を披露しておりました。

(なんと美しいことだ・・・。)

わたくしは言葉で表現すると、こんなに短い言葉になってしまうのか・・・と、惜しい気持ちになり、自然に懐から“もみじ”を取り出して息を吹き込みました。

言葉にするより、今の感動のすべてを表現できるように感じるからでございます。

“もみじ”はまるで自分の故郷に還ったように心が震えており、あふれる音色を響き渡らせておりました。

今、不思議なことに、“もみじ”の心が伝わってまいりました。

(大いなる源への回帰・・・)

“もみじ”は笛でありながら感無量のようでした。


山に守られるように、大叔母様のお屋敷は突然姿を現しました。

緑から黄色にすっかりお色直しをした銀杏の木の葉が辺りを黄色一色に染め、足元は黄色の小さな扇が無数に敷き詰められているようでございました。

自然のなせる技というものは、圧倒的な美で人から言葉を奪うものであります。

その小さな黄扇の小道は、ゆっくりとした昇り路で屋敷へと続いておりました。


門をくぐると大叔母様は、雨戸を開け放った部屋の奥からわたくし達を出迎えてくださりました。

褥(しとね)の上に半身を起こしたまま肩から着物を羽織っておられる様子から、大叔母様が以前より小さくなられたような気がしてまいりましたので、わたくしは笑顔とともに近くに駆け寄りました。

大叔母様の笑顔は優しく、懐かしい面影のままで安心いたしました。

わたくしの手を力強く握られたので、白くて細く心もとないお手をそっと包み込むように握ると、なんとも言えない温もりが伝わってきます。

「よくぞ、ここまで来られましたなぁ。」

感謝に満ち満ちた大叔母様の言葉に、お供のものはすすり泣いておりました。

「お久しゅうございます。お加減はいかがでございますか?」

大叔母様はあふれる涙で言葉が詰まったようで、家のものが一生懸命背中をさすっておりました。

わたしも決壊する涙の淵を必死に抑え、

「ここはなんと紅葉の素晴らしいところでございましょうなぁ。都におりますと紅葉とは遠くに眺めるものになってしまいました。しかし、こうして紅葉の真っ只中に身を置くというのは、なんたる幸せなことでございましょう

と、口から言葉を必死に紡ぎだすのが精一杯でございました。

「景時は幼き頃、ここの銀杏の木によく登って遊んでおったものです。今日はここまで登った、明日はあそこまで・・・と、毎日どんどん上まで行ってしまうので、皆がどんなに肝を冷やしたか・・・。」

昔を懐かしむ大叔母様の目は更に細く、懐かしさで溢れていらっしゃいます。

「ああ、そうでした。あの木はまだありますか?」

「ええ、もちろんですよ。景時を今か今かと待っていたはずです。」

大叔母様がやっと元気にお話になったのを見て、皆は袖の縁で涙を拭いながらも笑顔をこぼしておりました。

「景時、その木の所まで行ってみるといいでしょう。戻ってくる頃には夕餉(ゆうげ)の支度も出来ているでしょうから・・・。わたしも少し横になります。」

大叔母様がそういわれるのを機に、持ちこたえていた姿勢を一気に崩して、褥に崩れるように横になられ、皆が寝所から引き上げていきました。

大叔母様は、力を振り絞ってわたくしを迎えてさったのでございましょう。

心が痛みました。

大叔母様のおっしゃるとおりに、老木の銀杏の木までやってきました。

(こんなに大きな木であったか・・・。)

大人が見上げても驚くような高さの大木に、改めて驚きました。

辺りは大叔母様の屋敷の辺りのように一面に小さな黄色の扇が敷き詰められている大きな舞台のようでございます。

その木の元の銀杏の舞台でもみじを吹くことにいたします。

誰も居ない野山で自然を相手に笛を吹くというのは、なんたる開放感でございましょう。

時折、ザワザワとした木の葉の音や、山鳥の鳴き声が篳篥や笙の代わりとなって神がお遊びに参られているかのような別世界を感じます。

自分の体のあちこちから何かが抜けて、どこかに連れ去られるような不思議な感覚がいたしました。

ほんの一瞬、昔ここで一緒に遊んだかわいらしい女の子の顔がよぎりました。


「景時様~。」

という声に呼ばれ、振り返ると家の者が佇んでおりました。

腰を上げ、銀杏の老木を立ち去るときに、目を開けては居られないほどの強い風が吹いたのです。

(さては天狗の仕業か?)

と、ふと銀杏の大木の頂上を仰ぎました。

木の先端が夕日を浴び、黄金色に輝いて居りました。

間もなく、山には夕闇がやってくるようです。

 

夕餉には、山の豊かな幸が並んでいます。

都とは違い皆で食卓を囲むほのぼのとした温かさや会話があって、皆の笑顔がさらにほころんでいるように感じました。

何より大叔母様の顔色が微かに良くなったように感じたのが、わたくしには幸いでした。


都よりたくさんの虫の音が、辺りから聞こえてまいります。

なんという秋の夜長の楽しみでしょう。

「景時・・・、笛を聞かせてもらえませぬか?」

いつにない、よそよそしさでいう大叔母様にわたくしは戸惑いながらも“もみじ”を披露することにしました。

誰一人として、動きませんでした。

誰一人として、目を開けませんでした。

音楽は神との対話であると、父もよく口にする言葉でございます。

その言葉通り、神がその場にいらっしゃるかのように誰一人として動かず、また神を直視などするものはおりません。

清らかで静かな神との対話の時間の後、皆は静かに部屋へと下がっていきました。


 その夜、わたくしは不思議な夢を見ました。

それは、幼き頃に父に連れて行かれたある唐の舞踊の宴でございまして、幼いわたくしはさっぱり理解も興味もありませんでしたが、そのつけている面がとにかく恐ろしく、見たこともない化け物のような形相だったので一瞬足りとも気が抜けなかったのを覚えています。

静かに舞う足元からは摺り足の音もしないほどの浮遊感、毛の一本一本から激しい情念がほとばしっているのが幼いわたくしにも突き刺さりました。

しかし、その夢の中の舞台で静かに舞っているのは美しい女で、上から黄色に色ついた銀杏がはらはら降っております。

(ああ・・・ここは今日の銀杏の根元ではないか・・・。)

その女の舞に合わせて、わたくしは夢の中で“もみじ”を吹きますと、美しいその女がくるりと回ると舞い、艶やかな黒髪がしなやかに広がります。

どこからともなく、鼓の音も聞こえてまいりました。

即興のようでもあり、遠い昔に聞いたような気もする笛の音と鼓の絶妙な掛け合いでございました。

しばらくして、その美しい女が

「景時様・・・大きくなられましたこと。」

と、声をおかけになりました。

はっとしてよく見ると、澄み切った目をした色の白い美しい女が前におりました。

「わたくしを・・・ご存知で?」

「ええ・・・よくここにお登りになりましたよ。」

「・・・・??(このお方はもしやして??)」

助けを求めるように心の中で、“もみじ”に問いました。

わたくしとしたことが、いつの間にか“もみじ”を頼りにしているとは・・・。

「私がどのような者でも構わないでしょう。ただ、景時様に、お久しぶりにお会いしたいだけでございました。ここには滅多に人は参りません。私の友は景時様、ただお一人でございます。今も昔も・・・。」

目の前の美しい女をみて、わたくしは今やっと記憶が蘇って参りました。

いつもこの木にくると、幼子がいたのです。どんぐりを拾ったり、落ち葉の中を駆け巡ったり・・・。そうだ、そうだった!いつも、いつも遊んでいた名前も知らない幼子。わたくしが女の子の話をしても大叔母様はいつも笑っておいででした。」

目の前の白い女の目は、あの時の幼子の目にそっくりだった。

「うふふふ・・・。落ち葉の崖を滑り降りたり、高い枝から飛び降りても全然痛くなかった。」

「そうです、そうです・・・。落ち葉を雨みたいに降らせたり・・・。」

二人はいつのまにか笑いあって、懐かしい友との想い出に浸り、昔話に花を咲かせたのでございます。

「その、大叔母様も最近は元気がなくて・・・。」

不思議なことにその抜けるように白い女は、悲しそうにそう申しました。

「それが・・・心痛みます。」

「景時様、どうぞ力づけて差し上げてくださいませ。ずっと、景時様のお越しを楽しみにされていたのですから・・・。」

「はい。今日この“もみじ”を吹いてお聞かせしましたら大層お喜びになって・・・。

わたくしも胸が熱くなりました。ただ、わたくしも長くは止まれず都へ戻らねばなりません。大叔母様が気がかりで・・・。」

「大叔母様のことなら案じられませんように。ご心配いりません。」

「というと?」

「今はわからなくても、いづれわかる日が参ります。とにかくご心配されませんように・・・。」

「はあ・・・。」


 朝靄のように、その白い美しい女はすーっと消え、わたしは自然に目が覚めたのでございます。

不思議な目覚めでございました。

大叔母様は、その日一日をほとんど寝込んで過ごされました。

昨日はわたくしを待つことで、体力を消耗されたのでしょう。

心が痛みます。

朝餉(あさげ)のあと、山師と家の者が狩りに行くというのでお供をさせていただきました。馬にのって山道をずいぶんと奥へと分け入ります。

猪や兎の姿を見かけるも、寸でのところで取り逃がしてしまいました。

山菜などを摘み、諦めて帰ろうとしたとき、視界に白いものが飛び込みました。

(兎・・・?)

それにしては大きいし、躍動感があります。

あっという間に崖を登っていってしまいました。

その姿に弓をかまえていた者たちが、一斉に矢を下ろしたのでございます。

その雄姿に皆は、動けませんでした。

紅葉の色とりどりの山の中に、真っ白な鹿が崖の上から我々を見下ろしておりました。

「白鹿じゃ・・・。山の神様じゃ。」

山師がいうと、皆は無言のまま立ち尽くしました。

しばらく我々を見つめたあと、白鹿はくるりと向きを変え、大きく駆け上がると山の奥へと消えました。


帰り道、山師が

「白鹿はこの山の守り神ですじゃ。その神に出会ったものは滅多におりません。

わしも初めてですじゃ。ただ、じいさんから、そのまたじいさんからもその話は聞いております。ああ、なんと幸せなことでしょうな。神様がここから先は来てはならぬ!とおしゃって。ですから、引き返しましたのじゃ。」

こう申しました。

なんと、不思議なことなのでしょう。

白鹿の荘厳たる雰囲気や、凛とした目、猛々しく盛り上がった隆々とした筋肉の足はどんな鹿とも比べ物にならない雄姿でございました。

 

次の朝、わたくし達は都への帰京の準備に取り掛かり、後ろ髪を引かれる思いで大叔母様の元を去りました。

大叔母様は、力と気力を振り絞って、涙でわたくしを見送ってくださったのでございました。

(もう、これで大叔母様には会えないだろう・・・)

そういう考えたくもない事が、はっきりとわたくしには分かってしまいます。

大叔母様に後ろ姿を向けたとき涙があふれてきましたが、拭うことはせず、

泣いていることを気づかれないようにするために全神経を背中に注ぎます。


わたしたちの姿が見えなくなるまで、大叔母様は家のものに支えられながらも見送ってくださいました。

その山の頂きからは神の使いの白鹿も見送っておりましたが、誰も気づくものはおりませんでした。


 都に戻り自分の居場所に落ち着き、日々の雑事に紛れている頃に大叔母様がお亡くなりになったという便りが届きました。

不思議とあのときのように涙が出ないのは、心のどこかに覚悟があったからでしょうか。

悲しくないわけでは決してございません。

悲しみというものは、あとからじわじわと押し寄せてくる非情なものでございます。


弔いが終わる七日目の日・・・

夢の中に大叔母様がいらっしゃいました。

多少、お元気そうにも見受けられました。

優しい暖かい笑顔は、いつのときも変わりません。

「景時・・・いつぞやは遠いところまでよく足を運んでくれました。とっても嬉しかったですよ。私のことをずいぶん気に掛けてくれましたね。お礼をいいます。今夜は景時にお別れを言いに参ったのです。本当のお別れです。もう行かねばなりません。案ずることはありませんよ。お迎えがきているのです。ほら・・・。」

そう言う大叔母様の横には、白鹿と白く美しい女が立っておりました。

「あの時の・・・」

わたくしがそう申し上げますと、美しい女がおっしゃいました。

「私は銀杏の木に宿る者で、山の神である白鹿様のお遣いでございます。

景時様は小さい頃はよく一緒に遊んだ心の友。懐かしく楽しゅうございましたわ。」

白く美しい女が銀杏の木の精だといっても、わたくしは全く驚きませんでした。

「そういうことでしたか。」

続けて大叔母様が優しい笑顔で言った。

「景時がいつも女の子と遊んだというのですが、誰もその姿を見ておりませんでした。そしてある日、私がその木の元に参りましたら、このお方が

“私は神の遣いの者で、銀杏に宿った精霊です”と・・・。景時はそういう心のきれいな子供でしたから、人に見えないものが見えても不思議はなかった。私はちゃんと知っていましたし、景時、貴方を疑ったことなど一度もありませんよ。」

大叔母様は真実を知っていたのに、知らぬふりをしていたのでございました。

「大叔母様を白鹿様の元へお送りするのが私の使命でございます。ですから、どうぞご安心を・・・。」

わたくしは大叔母様のその様子を見送りながら、思わず聞きました。

「小さい頃、わたくしはなぜ木の高いところまで登りたがったのでしょう?」

「それは、山の神の白鹿様を見送るためだったのですよ。」

大叔母様がにっこりと微笑みました。

そう言うとおお叔母様と銀杏の精と白鹿の神は、空高く光の中へと溶け込んでいくようでした。

銀杏の精が“案ずることはありません”とおっしゃった意味が今やっとわかりました。

ほっとすると同時にわたしの目には、熱い熱い涙が一筋流れたのでございます。

大叔母様は光の世界で、幸せになられたのだ・・・ということがはっきりとわたくしに伝わってまいりました。

今日も自然に目が覚めました。

しかし、熱い熱い涙が伝った跡をのこしています。

わたくしは、静かに手を合わせました。


わたくしは大叔母様が亡くなられる際に、このような不思議な夢を見たのでございます。

心の奥からじんわりと湧き上がるような温もりに満ちた荘厳な感覚に包まれた“忘れられない夢”でございました。

                            景時 記


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