第10話

 照義の指示への服従を約束した岩谷だったが、修学旅行でやはりトラブルを起こした。二日目の夕食の時、所定の時刻になっても食堂に出てこなかったのだ。食事の時はクラス毎に点呼を取って、学年全員が揃ったところで、「合掌。いただきます」の号令がかかるのだが、岩谷一人が揃わず、六百名近い全員が待つ形になった。照義が慌てて部屋に行くと、彼は隅に畳まれた布団によりかかって眠っていた。照義はこいつはどういう奴なんだろうと思いながら岩谷の寝顔を見た。頭を叩こうと思ったが、猛然と反抗してきそうな気がして躊躇された。それで、「こら、起きろ」と声をかけて起こし、起きたところを叱りつけると、「うるさい」などと二、三口抗弁したので、「お前は飯を食うな。椅子に正座しておけ」と、照義は部屋を出ていく岩谷に浴びせかけるように言った。

 食事の後、照義は岩谷を部屋に呼んだ。目立つ場所で起きた事であり、今後のこともあるので、注意する必要があると考えたのだ。同室の教師は席を外し、照義は正座した岩谷と向き合った。さぁ、何を言ったものかと、照義は一瞬惑乱を覚えた。相手にインパクトを与えることを言わなければならないと思うと却って言葉は出にくくなった。殊に岩谷に対しては身構えだけが先行してしまう感じがあった。照義は食事の時間に気がつかないという気のゆるみと、起こされた時の反抗的な言葉を問題にした。岩谷は悪びれた様子はないものの、口答えはせず、彼にしては神妙に聞いていた。照義は話している間、岩谷の頭を叩きたい誘惑を何度となく覚えた。部屋に入った時、岩谷の頭を叩くのをためらったことが彼の心にわだかまっていた。それが岩谷に対する自分の怯えと意識されることが彼には不快だった。今なら叩けると思うのだった。しかし、話の途中で、取ってつけたように「頭を出せ」と言うのも不自然だし、そんなことにこだわることもおかしなことと意識された。照義の心中のそんな葛藤が説諭を全体として歯切れの悪いものにした。話の中で、岩谷が食事の間、言われた通りに椅子の上に正座し、何も食べなかったことがわかった。照義は当然のことを聞くような顔をしたが、頭を叩けなかった代償の意味を多分に込めた言葉に岩谷が従っていたというのは意外なことだった。それは少しばかり照義に勝利感を抱かせた。彼は岩谷に微かに哀みのようなものを覚えたが、それでこれまでに出来上がった彼に対する心の硬化が解きほぐされるものではなかった。

 引率教師のミーティングで、照義は岩谷が自分の指示に従って夕食を摂らなかったことを口にした。彼は我知らず得意気な口調になっていた。その後、学年主任が照義の部屋に来て、食事を摂らせないのはまずいと言った。照義は保護者の批判を考慮していなかったことを覚った。学年主任は照義の手を介さず、自ら手配して岩谷に食事をさせた。今になって岩谷に食事しろとは言いにくい照義には、それはありがたい配慮だった。


   

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