第9話


 照義にとっても修学旅行は負担だった。出発の日が近づくにつれて緊張は高まっていった。今回は岩谷のような生徒を抱えているので、また格別だった。ホテルの部屋割が決まり、部屋毎に室長以下の各係を決めた。この時点で村上の不参加が確定した。往復の列車の座席割が決り、旅行に必要ないろいろな事項を記載した旅の栞も出来上がった。その栞を使って、服装、所持品、ホテルでの行動などについての諸注意が、各クラスで一時限を取って行われた。照義は、集団行動なので、全体の動きがスムースになるよう自分勝手な行動を慎むことを繰り返し強調した。

 いよいよ明日が出発という日、旅行団の決団式を兼ねた学年集会が体育館で行われた。校長、学年主任の話、そして全体の指揮係の教師によって、翌朝の集合・出発時についての注意があった。生徒達は床に座り、照義は自分のクラスの列の後ろに立っていた。彼はクラスの生徒達の様子を見ているうちに、どうも人数が少ないような気がした。その日は欠席はないはずだった。人数を数えてみた。後ろから数えるので頭が重なっている場合もあるだろうが、数は四十にしかならなかった。在籍は四十三名だった。照義は二度数え直した。結果は三十九と四十だった。彼の胸を嫌な予感が走った。岩谷がいないのではないかと彼は思った。岩谷は一学期にも一度、学年集会に出ずに教室に居残っていたことがあった。今度の場合は彼の他にも二、三人が集会に出ず、教室に居ることが予想された。修学旅行直前の学年集会をサボるという感覚が照義には理解できなかった。学年集会での話を聞かないで明日からの旅行に不安は感じないのだろうかと思うのだった。また、事故がなく、充実した内容になるよう事前の取組みを重ねている教師側の配慮を無視する行為と感じられて、彼は怒りを覚えた。旅行に出る前からこれではどうなることかという不安も感じた。放っておくわけにもいかず、照義は唇をへの字に結んで体育館を出て教室に向かった。

 教室に入ると、案の定三人の生徒が机に俯していた。「お前達は何をしているんだ! 」と照義は大きな声を出した。その声で奥の席にいる南と大森という生徒は顔を上げた。しかし、照義の目の前に居る岩谷は俯したままだ。「学年集会がありよろうが。どういうつもりだ」と照義が言うと、南が、「休み時間から寝ていて気がつかなかった」と答えた。「寝ていて気がつかなかった? 」、照義は呆れると同時に腹が立った。「そんなことで修学旅行に行けるか! 」と叱って、南を呼び寄せ、頭にゲンコツを入れた。照義は岩谷の近くに立っており、以上の事は俯している岩谷のすぐ側で行われていたのだが、岩谷はまだ頭を上げなかった。その横着さに照義は怒りを刺激され、「こら、起きんか」と言って岩谷の頭を南よりも強くゲンコツで叩いた。岩谷はさすがに顔を上げた。そして、〈この野郎〉という目で照義を見た。岩谷には時間がかかると判断した照義は、先に大森を呼び寄せて叱り、ゲンクコツを入れた。南と大森は照義の言葉に従順に頷き、反省の態度が見られた。照義は岩谷に向き直って、「何で集会に出てこんのか」と訊いた。「寝とった」と岩谷は悪びれた様子もなく答えた。その言い方に照義はムカっとして、「お前などは修学旅行には連れていかんぞ」と言った。岩谷は平然と「行くよ」と答えた。「誰を連れていくかは担任が決めるんだ。学年集会にも出てこんような奴を連れていけるか」と照義が言うと、「俺は行くよ。あんたは関係ない」と応じた。叩くほかはないなと照義は思った。「ふざけた事を言うな! 」と言って、照義は岩谷の頬を張った。岩谷は「何か、この」と胸倉を掴んで押してきた。照義は二、三歩後退した。何度か繰り返されたパターンだった。照義のサンダルが脱げた。岩谷の力が緩んだ。照義は岩谷の手を払いのけると、「かかってこい! 」と言った。彼は岩谷と格闘するつもりだった。今度こうした場面になった時はそうしよう、そうするほかはないと思っていたのだ。すると岩谷はふっと笑いを浮かべ、戦意をなくしたように動きを止めた。「お前みたいな奴はとても連れていけん。親に連絡するから待っとけ」と照義は言った。岩谷の表情が固くなった。「お前にはとても責任が持てん」とさらに照義は続けた。岩谷は黙って照義を見ていたが、横を向くと、投げ出すように、「どうしたらいいん? 」と訊いてきた。照義はその言葉に思わず、「土下座して謝れ! 」と怒鳴った。岩谷はそれに値する行為をしてきたという意識が照義にはあった。しかし言った後で土下座という言葉は不穏当だったかなという臆病な懸念が胸を掠めた。岩谷は「土下座」と呟いたが、動かなかった。照義は床に正座させようと思った。だが、生徒を床に正座させるなという校長の指示が頭に浮かんで、仕方なく椅子に座らせた。

 「お前らは関係ないと思っているかも知れないが、修学旅行で何かあった時には担任の責任になるんだ。言う事を聞くならともかく、言う事を聞かん奴の責任はとても持てんのだ」と照義は吐きすてるように言った。岩谷は黙っていた。「お前、修学旅行に行きたいんか」と、照義が確認するように訊くと、岩谷は頷いた。「そんなら旅行中は絶対俺の指示に従え。いいか」と言うと、「わかった」と答えた。「絶対に逆らうなよ」と念を押すと、頷いた。集会が終って生徒達が教室に戻って来た。照義はそれを機に岩谷を放免した。


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