第52話 トリシラの話
「トリシラ、は、おねえさま、と、同じ名前だ」
先ほどと違って力を無くしていく手に捕まえられたままで、シャルは大人しく言葉を返した。目の前の男が何を思って姉の――トリシラの名前を呼んだのかはわからないが、悪い気持ではないのはなんとなくわかった。
「俺は、シャルだ。シャルロッテ」
「シャル。……シャルロッテ」
噛み締める様に繰り返して、シグは幾度か忙しなく視線を泳がせた。エマと激しく話し合いを――何か考えの整理でもしているのかもしれない。酷く動揺していて、普通の人でもこれほどの動揺は中々見られないくらいだ。
ましてや、評判の良い優秀な領主であるシグがここまで動揺するなんてよっぽどのことじゃないだろうか。
「…………ホークロワ?」
「どうして知っている」
睨む様にシグをぐいと見上げるシャルの表情は、身を護る為なのか剣呑だ。ハミルは不思議そうに首を傾げる。シャルが名乗ったのはつい今、名前だけだ。ホークロワなんて誰の名前だというのだという顔だ。
「……すみません、コーディさん。ホークロワと言うのは……何方の事で?」
「あいつの家名だよ。フルネームでシャルロッテ・ホークロワっていうんだ。女っぽくて馬鹿にする奴もいるから、シャルとしか名乗ってねぇの」
「ああ、成程」
ぽしょぽしょと問いかけられて、コーディがそっと返事を返した。
文化によってはそう言うこともあると聞くが、そう言う事例には出会ったことが無かったので失念していた。
シャルも嫌ってはいないもののそれを煩わしく思っているようで、名乗るのは通称であるシャルだけだし、必要にかられても本名を丸々名乗るなんて早々しないので、トルガストでも『ただのシャル』なのだ。
「アンタ、トリシラの弟なの」
「そうだ。俺はおねえさまの弟だ」
「そう。…………そう」
溜息を吐く様に頷いて、シグは力の抜けた手でくしゃくしゃになったシャルの髪を整える為に撫でつけた。
「どうしてだ。どうして『ホークロワ』を知っている」
「それはね……アタシがアンタのきょうだいだからよ」
「え?」
何度も何度も、髪が整ってからも撫で続ける両手がくすぐったかったのも忘れて、シャルは目の前の男を見上げた。背は高くない。だが、秀麗な、お綺麗な顔をしている。見た事ない顔だって言うのに、その顔には安堵と親愛が乗っかっていた。
「きょうだいってどういうことだ。俺は、俺のおねえさまは、きょうだいはおねえさまだけで、だから、きょうだいは」
「ああ、いきなり難しい話だったわね、ゴメンナサイ。ちゃんとお話ししたいのだけど、街には入ってはいけない?」
「それはダメなんだ」
「どうして?」
「おばあさまが、帰ってきたら、おとうさまに、ディクターに殺されるって言ってた」
「なら、もう、大丈夫」
くすぐったい手がするりと落ちて、シャルの手を握った。おねえさまとそっくりの優しい掴み方だ。
――そうだ、さっきの頭を撫でた手も、おねえさまと同じだった。
「お父様もディクターもこの街にいないわ」
「この街に、いない」
「お父様はとうの昔に死んじゃったし、ディクターはとっ捕まって、犯罪者として余所の国で裁判にかけられてるの」
今までの行いは引き渡しの時に包み隠さず報告した。きっと今頃は遠くの国で、男としての尊厳と人としての扱いを失って喚いているだろう。シグは内心でほくそ笑んだ。
目線を合わせる為に腰を折って、シグはシャルの綺麗な瑠璃色の瞳をじっと覗き込んだ。
「死んだ……捕まった。……いない……?」
何ともあっけない話に、シャルはぽかんとしてシグを見上げた。
もしかしたら急な展開に理解が追い付いていないのかもしれない。
「でも、俺はおばあさまに言われたんだ。お言いつけを守れなかったら、おばあさまはきっと俺の事嫌いになる」
「おばあさまが帰ってくるなって言ったのはね、多分あの頃この街で一番偉かったモーリックとディクターから、アンタを守りたかったから」
シグはそう言いながら、昔の事を思い出した。本当に、本当に酷かったのだ。モーリックが癇癪を起しただけで、その辺を歩いていただけの人の首が飛んだ事だってあった。ディクターの目に着いただけで、その貞操を奪われた少女だっていた。
だというのに助けを求める術はなく、エマを容易く表に出すことも出来なかった。今は夜に出てくることを基本にしているが、エマが顔を出せたのは明るいうち、使用人や街の人たちが多くいる所だけだったのだ。
「今、この街で一番偉い人はね、アタシなの」
「偉い人なのか?」
「そうよ。でも、アンタを苛めようなんて考えてないし、むしろ弟が居たことがとても嬉しいの」
「おとうと?」
そっと白い、少しだけかさつく肌を撫で摩る。少しばかり荒れてはいるものの、まだ思春期に入り始めの年頃の子供の肌だ。こんな会話も少しだけ拙い子供、嫌いになるわけがないだろうに。今初めて会ったばかりの兄弟でもそうなのだ、血のつながった祖母であればなおさら可愛いだろう。
「トリシラはね、アタシが尊敬するお姉様なの」
「そうなのか?」
「ええ、勿論。顔を見てすぐわかったわ。アンタ、アンタのママとトリシラ姉様にそっくりなんだもの」
シャルのラピスラズリとお揃いの瞳は、幼い頃心底憧れた色だ。あの時に見た瑠璃色こそ、『マリオン』の人生で一等美しい色だった。
「ねえ、シャルロッテ。この街で一番偉いアタシが絶対に守ると誓うわ。だから、街に入ってきてほしいの」
「それは……」
「会ってほしい人がいるの」
簡潔にそう言われて、シャルはぎゅっと眉を寄せた。会ってほしいなんて、誰にだというのか。
「絶対に、絶対に、アンタの事は護る。アタシの命も名誉も信用も、全部を盾にしていい。だから、ねえ。お願いだから、一緒に来て頂戴」
そこまで言われては、シャルだって流石に自分の事だけ考えるだなんて出来ない。なら、とシャルは口をへの字に引き結んだ。
「俺がおばあさまに怒られたら、一緒に怒られてくれるか」
「良いわ。ついでにアンタのお婆様ごと守ってあげる」
「なら、良いよ」
「守らないなんてあるわけないでしょうが」
アタシにとってもその人はお婆様なんだから。そう言って、シグは微笑んで、シャルの手を握った。
街に入ろうと踵を返すと、宿の夫婦がこちらを覗き見ているのが見えた。
「……久しぶりね、ダニエル、エレナ」
「御久しゅうございます、シグ坊ちゃま」
「ゴメンナサイ、この子の事、連れて行きたいのだけど」
「ええ、ええ。構いませんよ」
「寝床も変えるんでしょう、ついでに持っていきなさい」
全部知っている顔をした老女が頷き、老旦那はシャルの部屋から持ってきた荷物を差し出した。
「見た様な顔立ちだとは思っておりましたが――そうですか、この子は」
「ええ。トリシラの弟よ。だから、アタシたちの異母弟ってこと」
「あの、また来る」
お手伝いをすると言ったのはシャルだ。だっていうのに、薪割だって碌すっぽ出来ていないっていうのに、さっさと出て行って、失礼ったらありゃしないだろう。だからそう言ったのだが、老夫妻はにこにこと笑って首を横に振った。
「…………しゃーねぇか」
「ですね」
コーディが溜息を吐き、ハミルがうふふと困ったみたいに苦笑した。
今回の護衛の仕事は楽過ぎたのだ。街と街の間の護衛だけで、他にやっていることは観光そのもの。正直殆ど働いている感覚はないというのに給金が発生するのは居心地が悪い。
ここらで余分に働いて、気持ちよく給金を受け取るのも良いだろう。
「いーよ、俺とこいつでお前の分働いてから帰るから」
「その代わり、後で全部、洗いざらい教えてもらいますからね」
「……分かった」
さっさと行って来い。コーディの投げやりな言葉にこっくりと頷くと、シャルはシグに手を引かれて歩き出した。
「アタシね、シャルロッテなんて名前なんて知らなかったの」
「俺もアンタの名前を知らない」
「……そうね、アタシはシグマリオン。片割れの名前はエマリオン」
「片割れ。双子なのか」
「双子よ。ちょっと事情はあるけどね」
「そう」
少しだけ沈黙して、シャルはシグを見上げた。成人男性としては高い方ではないけど、それでもシャルよりも背が高い。
「ねえ、アンタはこの街で、ずっと――どこにいたの?」
「おねえさまと一緒にいた。山の中で、ずうっと一緒で」
「そう……この街を出たのは、お婆様に言われて?」
「うん。おねえさまが亡くなられて、おじいさまとおばあさまがとても怒ってて……それでその後、行商に預けられたんだ」
「…………そうなの」
何度も頷いて、シグはシャルを見下ろした。手入れはされていないものの、見れば見るほど姉に、母に生き写しだ。
可哀想な家族に、シグはそっと目を伏せた。美しくて憧れだった『お姉様』。そしてその母であった大恩のある義母。その2人は何も生きた証が無かったと思っていたというのに、こんなに大切な物を残していたのだ。
そう考えると長い間感じていたわだかまりが解れて行く気がして、シグは久々に心底の笑みを浮かべられた。
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