第42話 温泉の話



あれからすっかりへそを曲げてしまったジャネットはタングラスケルドまでの出発の見送りには領主の娘として顔を出したものの、終ぞシメオンの方を見向きもしなかった。それに苦笑を漏らしながらも土産の話を溢して出てから数日、足取りは中々に重たい物だった。

別に気分が向いていないとかそう言うわけではなく、物理的に足が重かったのだ。


「――くそ、湿地帯ってこんなに歩きにくいのかよ」

「それになんか、ちょっと、臭い?変なにおいがする」

「温泉ですよ」


時たま深く取られる足を引っこ抜きながらぼやくヒューと鼻をすんすんと引くつかせるシャルに、出発から良い所を中々見せられていなかったシメオンが我が意を得たりと解説した。


「タングラスケルドは保養地に選ばれる程度に温泉が湧く所でしてね、あちこちに小規模な厳選が湧いてるんです。この匂いはその匂いです」

「おんせん?」

「体にいいお湯の事です。物に寄りますが体に掛けたり、飲んだりする……自然界でとれる水薬の一種、ですかね」


ふうん。興味の浅い様子に何やら火でも付いたのか、ルベルの代理とばかりに甲斐甲斐しく色々と教え込んでいたハミルはもう少し解説を織り込む。こいつも結構世話焼きの気質らしい。


「石の中にも体に良い物ってあるんですけど、それが土の下で水と溶けあうんです」

「土の下で?」

「はい。特に山の中なんかはよくありますね。それが何かがあって地面を割って吹き出すんです。地面の中にはマグマがあって」

「マグマ?」

「はい。石や土がどろどろに溶けたものです。すごく熱いんですけど」


あ。シャルが閃きをそのままに目をきろきろと光らせた。


「それは知ってる。熱い奴だ。あれって石なのか。どっかーんって、爆発して出て来るんだよな」

「はい、其れがマグマです。鉄って溶かして形を変えるでしょう、他の石も熱で溶ける物があるんです。それで栄養分が長い時間で水に溶けだします」

「へえ、其れでお薬みたいになるのか」

「はい。で、マグマで温められるので、暖かいんです」


食い入るようにハミルの解説を聞いていたシャルが、心底感心したと感嘆の溜息を吐いた。


「俺には想像もつかないような話だ。ハミルは凄いんだな」

「そ、そんなことないですよ。こんなの、ヴィルジュ先生の授業を聞いていればいつか知る事です」

「でも、教えてくれたのはハミルだ。それって先生と同じくらい教えるのが上手って事だろう」

「それは、その」

「とってもとっても自慢できることだぞ、頭が良くて、強くて、俺みたいな面倒なのの世話を焼くなんて簡単に出来ないのにやってくれるんだから、優しい奴だ」


ハミルは思わず視線を逸らした。こんなに純粋無垢に褒め称えられることなんて今まで無かったのだ。元々こういった、嘘が無いというかひねくれてないというか、こんなストレートな気質に相対するのは得意でないのだ。だからハミルは、正直シャルがあまり得意じゃなかった。


「あ、あんまり褒め殺さないでください」

「俺はハミルを殺そうとなんてしてないぞ」

「褒められ過ぎて恥ずかしいと思わせること、を、褒め殺すと」

「ならもっと殺されてくれ」


ついに赤面して言葉を無くしたハミルを眺めて、シメオンがほのぼのと微笑んだ。少年たちの間の関係が良好になって行くのは良い光景だ。見ていて酒が進む。

しかし大人としてはそれを放置するわけにもいかないので助け舟を出すために新しい知識をひけらかすことにした。


「――その、薬の様な作用を持つお湯が、この一帯では地面から湧いているんだよ」

「じゃあ、この匂いはそのオンセンの臭いか?」

「そうだね、だから少し土臭いというか、薬の様な匂いがするんだ」

「シメオンも頭が良いんだな」

「偉い立場に立つために、お勉強は頑張ったんだ」


これも全てはカジミイル様の為だ。にっこりと笑うと、シメオンは草の下で水分を含んだためにふわふわとした足場を踏んだ。


「温泉は体にいいので、病気をした人や疲れた人がこれを求めてくる。体全体で浸かると、皮膚や呼吸から作用してとてもいいのだとか」

「飲むのじゃダメなのか?」

「そのまま飲むと強すぎる物もあるんだって。あと、味も良くないとか。だから長期間滞在して、毎日浸かるそうだよ」

「金がかかりそうだな」

「その価値はあるのだけど……ま、確かに富豪とか貴族の嗜みの一つともいえないことはない」


タングラスケルドの観光の目玉を纏めたパンフレットを頭に叩き折んだシメオンにはなかなかの旅行先に見えた。もしも立地や街道に問題さえなければ観光の目玉に出来るくらいには良い所だとも思った。

彼方此方に湧く温泉が高熱なのが問題ではあるものの、其れを糧に花実を付ける植物の薬効は高いし、雑草の如く生えるそれらを食用に転じるのは当たり前のことで、滞在すれば短期間で心身ともに健康になれそうな街だ。


「ううん、しかし温泉、か」

「何か杞憂がございますか?」

「いや、パンフレットに載っていた効能を見たのだけれど、婦人の不調に効く、とね」

「ああ、はい。そのようになっていますね。お嬢様も幼い頃に婦人関係の不調が酷くて、一時期通っておられましたよ」

「それ、言って良かった情報なのか……?」

「え?…………あっ」


シメオンの湿原に近いかもしれない発言に、やっぱりこいつデリカシーねぇなとヒューが溜息を吐いた。そう言うのは流石にアウトだろう。女性が身近に母親しかいなかったヒューですらそう判断したのだから、王子として徹底的にレディファーストを叩きこまれたシルヴも良く分かっているのだろう。壮絶に笑っている。

しまったやらかしたとばかりに褐色の顔色を悪くするシメオンに、シルヴは静かに微笑んだ。


「聞かなかったことにするね」

「は、はい。お願い申し上げます」


コーディがそっと視線を外したのを二人から離して壁になり、知らん顔をして歩くヴィルジュの隣をヒューは黙々と歩く。こういうのは聞かなかったことにするのが利口と言う物だ。


「…………ええと、それでなんの、そうだ、温泉。トリスやルベルも女性だから、こういった……婦人の不調とか、新陳代謝が、とか、美肌とか、そう言うのに興味があるんだろうかと思ってね」

「ああ、女性であるならそれは確かにあるやも知れませんね」

「いつも私の護衛や身の回りの事をやってくれているからね。今回の問題が解決したら、彼女らを連れて行って労ってやるのもいいかなって思うんだ」


慰労とは大事な物だ。例え心身ともに忠誠を誓ってくれている重鎮でも、労いを忘れることはよろしくない。それをシルヴは知っていた。

タングラスケルド後継者の問題が片付いたら、本気で彼女らを連れてくるのは良いかもしれない。この所ゆっくり休む様な事も出来ていなかったから、きっと十二分に体を休められるに違いない。――マリオン卿とやらが善良な人間であれば、と言うのが前提ではあるが。


「では、慰労も兼ねてという事であれば我等が女傑、エーディアもいかがでしょうか。昔馴染みとして言わせていただきますと彼女はこの所休みなしで働いていましたから、十分な区切りかと思うのですが」

「うんうん、それは良いね。ならその間の業務の代行は私が」

「勿論言いだしっぺの私も働かせていただきますよ」

「心強いね!」


ヴィルジュが横槍を入れると、シルヴは益々上機嫌に笑った。それを横目に眺めながら、コーディがそそくさとシメオンの隣に並んでその脇腹を強めに小突いた。


「……女の人の扱いなんて知らない俺が言うのもどうかと思うけどさ、こう言う時こそオジョーサマも是非労いたいってポーズくらいはとっといた方がいいんじゃねぇの……?」

「……あっ」

「多分あんた、そう言う所なんだろうな」


ジャネットの話を遠回しに振るとはっとしたシメオンに、こいつは一生朴念仁なんだろうな、とコーディは溜息を吐いた。




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