第8話 エーディアが怒る話
絡新婦を退治して一通り『大掃除』を終わらせてしまえば、シャル達のお役目はおしまい。後はエーディアの指揮下である一般兵や侍従の仕事で、所謂お役所の仕事である。
汚れを綺麗に洗い流し、血の染みついた所は全部新しい物に取り換えるらしい。
化粧石や装飾品は馬鹿にならないというが新しく建物を建てるよりは場所も金もかからないし、何よりトルガストの中の安全性が上がるのだ、明らかにこっちの方が良いというのは額が無くても分かる。
清掃担当の侍従が小麦袋みたいな粉洗剤や樽に並々入ったワックスや埃の詰まったゴミ袋なんかを入れたり出したりしているのが一週間ほど続いた後、ヴィルジュがにこにこと笑って作業の完了を教えてくれた。
エーディアが清掃の指揮を執っていたというらしいが、殆どリフォームだったらしい。
実際中を見せて貰ったが、学舎兼居住区として整えられたそこは間取りは前と同じだがどこもかしこもぴかぴかに磨かれている。
解放当時のあの魔物臭さと鉄臭さはどっかに飛んで行ってしまったようだった。
「どう?うちの皆の頑張りは!」
「すごい」
「素直に褒めてくれて嬉しいわ!」
屋上庭園でばったり顔を合わせたエーディアが両手を広げてくるりと一回転して飛び切り嬉しそうに髪をぶんぶん揺らしたのが、朱色交じりのオレンジみたいな赤毛が日を透かして炎が燃えて唸ってるみたいだ。
作業着の一式なのだろうか、麦わら帽を外して流れる汗を暑い暑いと扇いだ。
「兵舎の居住区も整え直して、これでシルヴィス王子殿下をお迎えする準備は整ったわ。あなたの協力のおかげ!大変だったでしょう、本当に感謝してるわ!」
「それほどでもない」
「謙遜なんて覚えちゃって…貴方らしくないわ、いつも通りでいいのよ」
「ううん、俺は強いから大変じゃなかった」
「謙遜ですらなかった」
随分と気分が高揚しているようで、エーディアは異様に楽しげににこにこ笑っている。
「……たのしそうだな」
「いいえ、嬉しいの」
晴れ晴れと微笑んで、エーディアは化粧石を張り直した壁を撫でつけた。
「私が誰か、わかる?」
「トルガストのとっても偉い人」
「ええ、それも、一番……いえ、二番目に偉い人」
「それが?」
「トルガストは父の治める街で、言ってしまえば所有物の様なもので、だから私が入ってはいけないところなんて、本来あるわけがないの」
「そうだな」
「でも、他人の物だった。しかも、私たちが倒そうと躍起になってる魔物たちの物」
編んで束ねた赤毛を指先でくるくると回し遊び、エーディアは幾度も壁を撫でる。
「悔しかったの」
むくれた顔をして、エーディアは手を止めた。
「此処は人の、我々の土地よ。だっていうのに、魔物は勝手に上り込んで自分たちの物だという顔をして……ちょっと調子が良いにも程があるでしょう。しかも、それで1000を超える一般人や同志が命を落とした」
「悔しくて、怒ってるのか」
「だって、そんなこと、あっていいわけがないじゃない」
少しずつ、壁を撫でる手に力が入っていくのが見えた。
「トルガストはね、人間の領域の一番端なの。海の向こうは魔物の国よ。この意味が本当にわかる?」
「此処が負けたら、数えられないだけの数が死ぬってことは」
「そうよ、数にするのも馬鹿馬鹿しくなるくらいにね。だと言うのに、あまりにも、中央都は、この国はそれを軽く見ている」
「……」
「わかる?前線基地よ?」
前線基地。その言葉の意味くらい知っている。馬鹿にされているわけではなく確認したいのだろうか、エーディアは小さく口元を釣り上げた。
「この領域が100年を超えて封印されていたことが証明なのよ」
「封印が証明?」
「だって、封印が絶対なんて誰も言ってないんだもの」
絶対と言われていない封印。それは、恐ろしい物だ。
「もしも、もしもよ。封印の中に、内側から封印を破れる能力を持った魔物が現れたら?」
「簡単に封印が壊されるな」
「そうしたら、何の準備も出来ない我々は壊滅する可能性が高いわ。不意を突かれるんだもの、全滅も大いにあり得る。――それが他の魔物たちに伝われば、此処が魔物の拠点になるのは当たり前の事」
前線基地を名乗っているトルガストには、名乗れるだけの物が溢れている。食べ物に武器、薬、書物。それらが全て魔物の側の物になる。
それは、聖魔戦争における天秤が大きく傾く理由になりかねない。
「私はね、このことを知った時、とても悔しくて、それからとても怖かった。私たちはいつ虐殺されてもおかしくないと知ったのだもの。……どうにかしようと思って色々試してみたこともあったけど、無理な事だった」
何をどうして何が無理だったのかは、多分聞いても答えに困るのだろう。そう思って、シャルは何度か目をゆっくりと瞬きした。
「本当ならあの封印状態でも、王都の兵団を借り受けられれば人海戦術で制圧できる筈だったのよ。でも、その申し出もいつまでも先延ばしされておしまい。面白かったわよ、理由を聞くのは」
『建国祭の準備でそれどころではない』『国王陛下が病気で』『大臣の子供が生まれそうで』『隣国の王女が危篤で』……馬鹿馬鹿しい理由ばかりで嘲笑だって零れるのは仕方がないだろう。
だと言うのに嫌味を一つ溢せば、次の年度の役人の割り当てが減っているのだからやってられない。こちらは国の為、世の為人の為に命を張って肉の盾になっているというのに、随分と丁重な扱いだ。
「なぜ、貴方が討伐しないのかと言われたこともあったわ。私の体が戦いに耐えられないなんて話を嫌味の一つで口にした男がよ。何度あれを封印の中に閉じ込めてやろうと思ったことか!」
「王都の連中は馬鹿なのか?戦える奴が戦い、戦えない奴を守るのは当たり前だろうに」
「そう言ってくれるの?」
当たり前の話だろう。そう続けると、エーディアは屈辱に歪んでいた顔を呆けさせ、シャルを見た。
「俺は料理も掃除も繕い物も、自分の事なのに何一つまともに出来ない。だから、それをやってもらうために、それが出来る奴を守るんだ」
「そうなの?」
「……悪口を言ったそいつは一人で畑を営み、そこから全ての糧を得て、家を建て、家の事を一人でこなし、服を繕う。それが出来るのか」
「……ちょっと無理でしょうね」
「そうだな、俺なりの悪口だ」
くすっとエーディアが笑いを溢したのを見て、シャルはほんの少し肩を下した。少し緊張していたらしい。
彼女はシャルやコーディと会話をするとき領主代理の顔ではなく年上の世話好きなお姉さんの顔をしていたから、こんなに激怒している顔なんて見たことがなかった。
正直、こんなに怒っている知り合いのお姉さんの相手なんて勘弁してほしい。実力が上の魔物を相手に本気の殺し合いに挑んだ方が万倍マシだ。無理だ。だって、宥めるよりも殺し合いたい。物騒な話だが、そっちの方が性に合っているのだ。
しかしエーディアの独り言の様な怒りの話を聞くとその激怒も良くわかるので、シャルは出来る限り黙り込んでいた。
だって、怒った年上を宥めたことなんて多分今まで生きてきた中で一回もない。
しかも、シャルに向かって怒っているわけじゃないのだ、宥めるなんて難しいにも程があるだろう。
――そう言えば、おねえさまがこんなふうに『りふじん』に怒っている所を見たことが無かったな。薄ぼんやりと考えて、ほんの少し姉の面差しを思い出した。
気の強そうなエーディアとは似ても似つかない癖にたまにいう事が似ているあの人は、やはりこういう風に怒っていたのかもしれない。今となっては分からないが。
「失礼する」
何か言うべきかもしれない。でも、どうすれば、何を言えば良いものかと困惑に口をもぐもぐさせていると、知らない声がすっと通った。
エーディアの怒っていた目がシャルから離れてその後ろ……屋上庭園の入り口を鋭く睨み付けた。また顕になったエーディアの憤怒に一瞬シャルが緊張する。
「初めまして、レディ・エーディア」
綺麗な男だと思った。いつだったか、依頼の報酬に色を付けたと譲られた琥珀と同じ色の髪に、海と同じ色の青い瞳をした、綺麗な男だ。
頭のてっぺんから指先まで綺麗なその男は、まるで芸術品みたいに綺麗に微笑んだ。
「私こそがシルヴィス・オーマ・トアイトン・レトナーク。レトナーク王家直系、ガストニー王の末の息子である」
「!」
男の後ろに立つ葡萄色の髪の女と栗毛の娘がこちらを睨む様に見ているのが見えて、シャルは息を呑んだエーディアに半歩寄った。
「……やめなさい。咎めるつもりはない」
シルヴィス王子に咎められ、女と娘はほんの少し視線の圧を弱める。王侯貴族と言うのは顔のつくりも違うのだろうか、随分と美貌の目立つ三人組だ。
「エーディア、まずは謝罪を」
「覚えがありません」
「あるとも」
しれっと答えてシルヴィスは腰に下げた剣を葡萄色の髪の女に預け、数歩進み出た。
「この国の、そしてすべての人々の為に尽力してくれている貴方たちに、私は王族の一人として何一つできなかった」
「……そのようなことは」
「無いとは言わせない。私が見てきた王都の王侯貴族は、聖魔戦争なんて遠い異世界の話の様にお伽噺にしていたのだから」
お伽噺に金や命をつぎ込む馬鹿は居ない。馬鹿にしたように笑い、シルヴィスは目を細めた。
「エーディア、私はね――聖魔戦争を終わらせたいんだ」
「殿下!?」
栗毛の娘が何を馬鹿な事をと咎める様に声を荒げた。なんのことを咎めているかはわからないが、何かを怒っているらしい。
「君がこのトルガストを想うのなら、そして、私に従ってくれるのなら。私と共に、そう、形だけでもいい。共に戦ってはくれないか」
「随分と見縊っていらっしゃるのね」
エーディアはくすりと冷たく笑った。馬鹿馬鹿しい申し出だった。
「一万七千年前、人類史は聖魔戦争と共に開幕しました。そして、人が国家と言う枠を作り上げ、前線の最終防衛ポイントとしてトルガストが築かれ、レトナークによって最高前線司令にトルガスト家が任命されたのが約一万年前。そう、それからですわ」
きりりとエーディアの拳が音を立てたのが聞こえた。
「トルガストの者がこの一万年以上の間で聖魔戦争を考えなかった日は御座いません。我等の悲願は、このトルガストが戦いと無縁のただの海沿いの都と呼ばれることただ一つ。私たちは、その為ならば」
怒っているのか何なのか、エーディアはそっぽを向いて海を見た。
この海の向こう、そこに魔物がうじゃうじゃいるのだ。何故か魔物たちはこの大陸に降り立つにはこの周辺の海岸線を通らないといけないらしい。
だからこそもうけられた砦、それがトルガストだ。
エーディアはこの街の領主の娘で、次に領主か、その妻になる。つまり、この街で生まれてこの街で死ぬって事なのだろう。
その気持ちは流石にちょっと分からなくて、シャルはじっとエーディアを見た。
シャルには彼女の瞳の中で、ごうごうと――怒りなのか敵意なのか何なのかわかりかねる何かが音を立てて燃え爆ぜているのが見えた気がした。
「なんだってやってやるわ」
重たい物を呑みこんだような顔をして、シルヴィスはこっくりと頷いた。わかり切った返事だろうに、彼の後ろの娘たちは驚いたような顔をしていた。
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