事実と真実


「恨んでない」

 突然そう言われて動揺しない人なんているんだろうか。

 否定しているのはわかる。だけど、そもそも何もなければ出てこない言葉だ。


 雪村さんの姿が脳裏に蘇る。寒気を感じるほど冷たかったあの目。


 少なくともあれは気のせいなんかじゃなかったのだ。そう確信した。



 お母さんの視線が促しているように見えたから、私はやっと両手に持った日記帳に視線を落とした。


しおり、挟んである場所わかる?」


「ここ、ですか?」


「そう」


 お母さんの細い指先が示した。

 空白の時間を辿る旅。その入り口は、楓が亡くなる数ヶ月前。忘れもしない、連絡が途絶えた日から一週間後の日付だった。





 三月二十五日(水)


 最近は昔のことばかり思い出す。

 走馬灯を見るにはまだ早すぎる気がするけれど、最期の日を迎えた頃には案外ちょうど良かったと感じるのかも知れない。それくらい密度が濃くて苦労の絶えない人生だった。


 父は私が小学三年生の頃に急死した。

 ギャンブルとお酒ばかりやっていたらしいから不摂生が祟ったのかも知れない。

 後に残ったのは母と私と、小さなアパートと、多額の借金だけだった。


「ひとりっ子だから好きなものなんでも買ってもらえるんでしょ」ってよく同級生たちから言われていたけど全然そんなことはなかったし、むやみやたらに欲しがらないのは当たり前になっていた。


 私がそうやって何年も守ってきた『当たり前』

 その概念をひっくり返したのが高校の頃に出会った彼女だった。





 そこまで読んで私は顔を上げた。

 まだ始まったばかりなのに知らなかったことがすでに記されていた。


 確かに昔ここへお邪魔したとき、築何十年と経っていそうなアパートだったから少し驚いた。

 楓が身につければガラス玉だって宝石に見えてしまいそう。それくらい彼女は洗練された雰囲気だったから、生活感というものにまるで結びつかなかったのだ。


 ましてやそんな事情があったなんて……。


 部活に入らなかったのも、早くからバイトを始めたのも、卒業後にすぐ就職したのにも納得がいった。

 すでに少し、胸が苦しい。


 でもちゃんと見届けたい。

 私は再び視線を戻した。





 彼女は欲しいものは欲しい、やりたいことはやりたいとはっきり意思を示せる子だった。

 その天性とも言える能力は対人関係でも惜しみなく発揮されていて、みんなから敬遠されがちだった私にも満面の笑顔で声をかけてきた。


 私は正直、自分の気持ちというものに疎くて、それが嬉しいのかよくわからなかった。


 でもだんだん彼女と一緒にいるのが楽しく感じられるようになって、何より彼女をとても可愛らしいと思うようになった。


 太陽のような、眩しい存在だったと思う。

 それでいて野生の花のような飾らない可憐さがあった。

 人の為に涙を流せる優しさもある。自分の感情も相手の感情もとても大切にしているのがわかった。


 私は時にそんな彼女を羨ましく思った。


 その感情は最初は確かに純粋なものだったと思う。

 だけど気が付いたら雨が降り始める前の曇り空のように私の心に重く垂れ込めていた。



 彼女が欲しいものは欲しいと言えること。迷わずに手を伸ばせること。


 少しずつ勇気を出していけるよう性格が変わっていけば私もそれが出来ると思っていた。


 だけどそうじゃないと気付いてしまった。そもそも住む世界が違っていたのだと気付いてしまったのだ。


 自分が病気になってしまったときに確信した。



 今でもはっきり覚えてる。一年前、癌だと知った。

 見つかった頃にはもうだいぶ進行していた。職場の健康診断でも見つからなかったくらいわかりづらい位置にあったらしい。このままだと余命は一年半〜二年ほどだということだった。


 母は私を励まし、治療することを勧めてくれた。わずかでも可能性があるのならそれを信じてみようと。


 圭くんも病気のことを知った上でそれでも一緒になりたいと言ってくれた。


 だけど私は首を縦には振れなかった。

 悲鳴のような声が出た。


「自分のしたいこと何もかもを我慢して、いつも誰かの為に頑張り続けているような人生だった。同い年の子たちが欲しいものをどんどん手に入れていくのを側で見ているしかなかった。これ以上の我慢はもう嫌。もう疲れた。最期くらい静かに逝きたい」


 そんなことを言ったらしい。


 圭くんのことは大好きだけど籍を入れなかったのは、私の亡き後も私のことを引きずらないでほしい。つまりは私の持つ理想という名の我儘だった。だって彼の気持ちは無視しているのだから。



 親友である彼女には伝えるべきか。何日も迷った。

 でも言うべきではないと思った。何故なら彼女の結婚式まであと半年だったからだ。忙しい時期だと思うし、心配かけるようなこともしたくない。そういう理由だと自分でも思っていた。


 家族や恋人の優しい気持ちを踏みにじり、治療しないことを選んだ私は、半年後に彼女の結婚式に何食わぬ顔で出席した。


 なのにどうだろうか。


 彼女の美しいウエディングドレス姿。神々しい光に包まれた幸せそうな笑顔。会場に溢れる祝福の声。


 私が欲しくても手に入らないもの。

 彼女はこれからも手に入れていくのだろう。希望に満ちた未来を。


 私はただ、死に向かって転がり落ちていくしかないというのに。



 身体がガタガタ震えて涙が溢れた。


 その感情は憎しみだった。



 無邪気な笑顔で「ありがとう」と言う彼女。

 私の涙の意味も知らずに。



 癌のこと、余命のこと。

 絶対言いたくないと思った。


 優しい彼女はきっと泣く。何もかもを持っている彼女が私に同情して涙を流すのだ。


 そんなことされたら私はどうなるだろう。

 肉体より先に心が死んでしまう。あまりにも惨めだ。そんなのは絶対に、嫌。





「…………っ!」


 私が息を飲んだとき、鼻を啜る音が聞こえた。

 恐る恐る、顔を上げる。


「私のせいなのよ、咲ちゃん。私があの子に苦労ばかりかけたから……」


「で、でも……」



 でも、楓はそう思っていなかった。

 楓は私のことを憎んでいた。

 なのに、私は、何も知らずに……


 自分が今まで彼女にかけてきた言葉を思い出す。


 部活に入らないのとか、進学しないのとか、結婚しないの、とか。


 その一つ一つが鋭利なとなり、楓の心を傷付けていた。


 いつか楓が言っていた自分自身の欠点。



――プライドが高すぎるところ、かな――



「楓……っ」


 今頃気が付いても遅い。私は彼女が大切にしていたものをボロボロにしてしまったのだ。



――ないよ。何も。あなたに出来ることなんて――



 辿れば辿るほど思い知らされる。本当に、私に出来ることは何もなかったのだと。



「咲ちゃん……」


 震えていた私の手にお母さんの手がそっと重なった。

 訴えかけるような涙目。喉に力が入る。


 そうだ。約束。

 全部読むって約束したんだ。


「楓、待ってて」


 涙を拭って続きを追った。





 耐えきれなくなった私は、一方的に彼女と連絡を絶った。


 純粋な彼女は性懲りもなく追いかけてきた。

 この期に及んでまだ自分が親友だと信じてる。自分の善意が必ず良い結果をもたらすと信じてる。心底うっとうしかった。



 あれから一週間。

 やっといくらか気持ちが落ち着いてきた。静かになって、やっと。


 そしてやはりこれで良かったんだと思えた。



 絶望的な状況に置かれて、もう、私の心は真っ黒に染まってしまった。純粋な目でものを見れないし、純粋な人と関わることも難しい。


 この闇が溢れ出したら、きっといつか彼女に牙を剥いていただろう。



 私だってわかっていたんだ。


 彼女がいま持っているもの。全てがなんの努力もなしに手に入れた訳じゃないことくらい。

 あの素直な人柄の影響は大きい。


 だからこそ壊れなくて良かったと思う。


 こんなに荒んでしまった私でも、輝いていた過去は決して嘘になどならないと信じていたいの。


 ここで終わらせれば過去は守られる。


 私の最後の我儘。


 とびきり可愛くて優しくて大好きだった彼女の笑顔を自分の中に残しておきたいから。憎んでも嫌いになんかなれない。


 大切な思い出と一緒に逝きたい。





「楓……!」



 馬鹿。馬鹿だよ。そう言いたい。


 八つ当たりして少しでも気が晴れるならそうしてくれた方が良かった。


 でも、そんな自分になるのは楓自身が許せなかったんだよね。

 その気持ちが今は手に取るようにわかってしまうから尚更やるせない。


 縁を切られたという事実の裏にはこんなにも沢山の真実があったのだ。



 お線香の香りが濃くなった。

 楓と私は確かに繋がったんだろう。


 でもそれもやがて薄れていく。

 大好きな哀愁帯びた微笑みが遠のいていく。


 とても受け取れそうにない、でも受け入れてあげなくてはならない、最後の一言に涙が落ちた。





 だから、さよなら。







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 人と距離を置く、縁を切る。それは相手が嫌な場合だけでなく、相手や思い出を守ろうとする為の場合もあるんじゃないかと考え、この話を書きました。

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だから、さよなら。 七瀬渚 @nagisa_nanase

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