戸惑いと勇気
最近仕事が忙しかったから、土日は旦那と一緒にDVDを観ながらのんびり昼飲みでもしようと思ってた。
でもやっと知ることが出来た事実。過去を辿れるかも知れない可能性。
とても後回しになんて出来ない。
「なぁ……咲の気持ちはわかるけど、あまり詮索しない方がいいこともあるんじゃないのか?」
朝から出かける支度に取りかかっている私に旦那はそう言った。
普段は淡々とした口調が多い彼だけど、何だか心配しているような声色だった。
なんとなくわかった。
追求して、私が更に傷付く可能性がある。そう思ってるんだろうと。なんだかんだ優しい人だから。
それでも私は彼の目をしっかり見て言い切った。
「もしご家族の方が何も話してくれなかったらそれはそれでいいの。ただ何も行動しなかったら絶対後悔すると思うから」
「お前は本当に……」
「わかってる」
実際はわかっているのかどうかもよくわからないんだけど、後戻りする気がないのなら聞いたって無意味だ。優柔不断とは真逆の気質なのだろう、私は。
そうして自宅を後にして最寄りの駅へと向かった。
細かな雨が降ってきた。私は傘を広げる。菓子折りの入った紙袋が濡れないように気を使った。
音もない霧のような、秋に降るこういう雨が地味に濡れるし身体を芯まで冷やすんだ。
時間はまだあるけど少し足速に先を目指した。
楓の実家はここから大体一時間半くらい。
お邪魔したのは二回だけなんだけど、私の実家の隣町でそこそこ土地勘のある場所だったから割と印象に残ってるんだ。
電車の中は
私は移動中ほとんど眠って過ごした。
正直今でも受け入れられない事実。昨日はとても熟睡など出来なかったからだ。
普通列車と新幹線の乗り継ぎを経て、十二時頃に楓の地元の駅に着いた。
昼食は駅前のカフェで済ませ、ゆっくりコーヒーを飲みながら一時間ほど時間を潰した。
連絡手段がないから直接押しかけようとしているのだ。お昼どきに行っては更に迷惑だろうと考えてのことだった。
雨はこちらでも降り続いていた。午前中よりやや大粒だ。
小さな公園の近くを通ると濡れた落ち葉が歩道まで広がっていた。
黄色に茶色に、赤。
役目を終えた色とりどりの葉が水たまりに揺蕩う様は芸術的で、そして何処か物悲しく私の目に映った。
「あった……」
やがて私が立ち止まったのは二階建てのアパートの前。確かここだったはず。
二階だったことは覚えてるんだけどどの部屋だったかまでは……そう思っていたけれど、幸いなことに階段を登って手前から二番目のドアの近くに楓と同じ『
ホッとため息をついた。だけどすぐにまた緊張で身体が固くなる。
たまたま同じ苗字なだけだったら?
それに合っていたとしても、もし……もしも……
――ないよ、何も。あなたに出来ることなんて――
「…………っ!」
ふるふるっと素早くかぶりを振って、私はインターホンのボタンを押した。
昨日までは迷いなんてなかったのに一体どうしたっていうの。ここまで来たんだから、あとは目の前のことに集中しなくちゃ。
『……はい』
返ってきたのは女の人の声だった。お母さん、かな?
「あっ、あの、突然すみません! 楓さんのお母様ですか?」
『……どちら様でしょうか』
「私、楓さんの友達……で、
『咲ちゃん? あの、高校のときの?』
「はい、そうです! 本当に突然すみません」
『いえ、少々お待ち下さい』
足音が近付いてくる。ドアはすぐに開いた。
正直もう顔は覚えてなかった。
でも楓によく似た薄い微笑みと続く言葉が彼女が誰だか物語っていた。
「咲ちゃん、久しぶりね。もしかして楓のこと……聞いたのかしら?」
「はい……私、つい最近知ったので遅くなってしまって……本当にご愁傷様です」
「いえいえ、遠くから来てくれたんでしょう。ありがとうございます。是非上がっていって下さい」
お母さんが中へと招いてくれる。お邪魔しますと言って上がろうとしたときだった。
「じゃあ俺そろそろ帰りますね」
え? 私は廊下の奥へと見入った。
若い男の人がいる。
「あら、
「いえ、お邪魔になるといけないので」
その人は迷いのない足取りでこちらへ歩いてくる。近付けば近付くほど誠実そうな顔立ちだとわかる。
そして思いがけないことを言われた。
「あなたが、西野さん」
「えっ……」
私の両足は氷漬けにされたように動かなかった。ただ痺れるほどの冷たさが伝わってきて小刻みに震える。
そういえば見たことがある。この人。
昔、楓が見せてくれた写真。楓と二人で写ってた。圭という名前にも聞き覚えがある、気がする。
「あっ、あの、もしかして楓の……」
「お邪魔しました」
彼は私の横を素早くすり抜けて去って行った。
鋭利な
「ごめんなさいね。さあ、どうぞ」
「は、はい……」
ドアが閉まった後、もうそこに彼はいないのに私は思わず振り返った。
今、初めて会ったはずのあの人は、ただ私の名前を呼んだだけだった。
そして私からの言葉は何一つ受け取らなかった。
あの態度の意味は。
考えられるのは……軽蔑。
「今日は肌寒いから温かいお茶の方がいいかしら」
「あっ、いえ、お気遣いなく! あとこれつまらないものですが」
「あら、なんだかこちらこそ申し訳ないわね」
菓子折りを渡した後、
「あ、あの、それで……楓は……」
「そうね。先に案内するわ」
お母さんがダイニングに面した引き戸を開けてくれた。
その先はリビングになっていて奥に仏壇があった。
「楓、咲ちゃんが来てくれたのよ」
お母さんの優しい声に続くようにしてゆっくり、ゆっくり近付いた。
次第にはっきりしてくる仏壇の前の写真。
紛れもなく楓の写真だった。
本当だったんだ。
信じたくない。悪い嘘であってほしい。そんな悪趣味な嘘を振りまいた奴がいたら絶対に許さないけど本当であるよりかはよっぽどマシだと思っていたくらいだ。
そうやってギリギリまで思い続けていた私の気持ちが、ギリギリで保っていた私の心が、暗闇の中で音もなく崩れていく。
やっと会えたのに。言葉が出てこない。
やっともう一度、楓の姿が見れたのに、視界がどんどん霞んでいく。
「お線香……あげてもいいですか」
「ええ。そうしてやって下さい」
今、私は楓とちゃんと繋がれているだろうか。
立ち上る細い煙を見ながら思った。
「さっきの人はね、
「いえ、私はさっきが初めてで……」
リビングのテーブルを挟んでお母さんと一緒に座って話した。
あの男の人が楓の彼氏さんだろうということは結構早い時点で勘付いていた。
だけど、やっぱり引っかかる。
「あの……雪村さんって方、私のこと知ってるみたいでしたけど……」
「そうね、楓が咲ちゃんのこと話していたんだと思うわ」
「そう、ですか」
引っかかる。でも言えない。
睨まれたなんて気のせいかも知れないし。
モヤモヤした気分は私の口数を少なくした。思うように喋れずにいた。
やがて何か察したかのようにお母さんが言った。
「圭くんは咲ちゃんのことを誤解しているのかも知れないわ」
「え……?」
「恋人と友達とでは解釈が違うと思うから」
なんの、ことだろう。
憂いを含んだようなお母さんを表情をただ見つめることしか出来ない。
「ちょっと待ってて下さる?」
そう言ってお母さんは私に背を向けた。
壁際の小さな引き出しを開けている。
戻ってきた頃には手に何か分厚いノートのようなものを持っていた。
「凄く迷ったの、私も。咲ちゃんにこれを見てもらうべきか。もし咲ちゃんが楓が亡くなったことを知らないままだったら黙っておくつもりだった。でもあなたは来てくれた。だから……」
お線香の香りが流れ込む。
差し出されたものに私も恐る恐る手を伸ばした。
「これは楓が書いた日記よ。ここには咲ちゃん、あなたのことが書いてあるページがあるの」
「え……!」
「自分の余命がわずかだと知った楓が、葬儀に呼んでほしい人の名前を紙に書いて伝えてきたときがあってね。縁起でもないことやめなさいって言ったんだけどあの子聞かなくて、仕方なくそれを受け取ったの。そこには一番仲良しなはずのあなたの名前がなくて私も気になってた。その日記は楓が亡くなった後に見つかったわ。そのときにわかったのよ。ここに書いてある『彼女』というのはあなたのことだって」
なんだかいまいちわからない。私は戸惑いの渦の中にいた。
でも次の言葉で全身に緊張が走った。
「約束してほしいことがあるの。私はあなたを恨んでない、それを踏まえた上で読んでほしい。それからどうか、そのページだけは最後まで読んでやって。お願いします」
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