第72話 林間学校④

「ま、仕方ないね。さっきの防音室に戻って遊ぼ! 暖房もあるからさ!」


 奏に手を引かれ、再び防音室に戻る。


「さてと……あれ? エアコンつかないね」


 何度となく奏がボタンを押してもエアコンがつかない。どうやらエアコンは集中管理されているようだ。施錠して、使いもしない棟はまるっと暖房が切られてしまった。


 今はまだ大丈夫だが、深夜になるに連れてジワジワと部屋の熱が奪われていくだろう。しかも奏は半袖だ。咄嗟に彩音が渡してくれたウィンドブレーカーを脱いで奏に着せる。


「いやいや、悪いよ。私のせいでこうなったんだから」


 奏はウィンドブレーカーを僕に返そうとしてくる。


「平熱高いほうだから。しばらくは耐えられるよ」


「男前な事を言いますなぁ。じゃ、有り難く使わせてもらうね」


 もちろん平熱が高いなんて嘘なのだけど、奏に風邪を引かせるくらいなら少し寒い思いをするくらいどうってことはない。


 防音室で踊ったり、鬼ごっこをしたりして時間を潰す。一時間に一回、鍵の確認に行くが深夜を回っても鍵はかけられたままだった。


 動いて汗をかいている間は良かったのだが、それが冷えると一気に寒くなってきた。


「奏吾くん、もう諦めて寝ちゃおっか。朝になればさすがに開くでしょ」


「そ……そうだね」


 奏が壁にもたれかかるので、僕も距離を取って座る。


「なんでそこ! こっちおいでよ」


「い……いや。いいよ」


 奏と不用意に近づくのは危険だ。色々と。


「なーんか最近、私に冷たい気がするんだよなぁ。家にも泊まりに来てくれないし。何かあったの?」


「な……なにもないよ」


「じゃあこっちに来ればいいじゃん!」


 そう言いながら奏は待ちきれなくなったようで、僕に密着する距離まで近づいてきて、隣で三角座りをする。


 ウィンドブレーカーを脱いで膝にかけてくれた。僕と二人で掛け布団のように使うらしい。


「あ、汗臭いから……離れようよ」


「何それ、女の子みたいなこと言うんだね」


 奏はケラケラと笑いながら僕の服の匂いを嗅ぐ。さすがに恥ずかしい。


「変な匂いはしないよ?」


 何度もクンクンと匂いを嗅いでくる。


「い……いや。やめてってば」


 奏は味をしめたようで、八重歯をむき出しにして笑うと、僕の脇やら胸板やらの匂いを嗅ぎ始めた。じゃれ合い方が度を越している。永久の言っていた『奏はブレーキが壊れている』という言葉を思い出す。あれは本当だった。


 無理やり引き剥がそうと奏の両手を抑えてもみ合いになる。気がつけば奏は動くことをやめ、ただ僕を見つめていた。僕も奏の手を掴んだまま動きが止まる。


 奏はゆっくりと目を瞑って唇を突き出してきた。何を求めているのかは僕でも分かる。


 だけど、これは超えてはならない一線。ブレーキが壊れている暴走機関車の奏を僕が止めなければならない。でも、そもそもなぜブレーキが壊れている奏は、僕に向かって全速力で走ってくるのだろう。


 依存、拠り所、都合のいい人、甘えられる人。色んなラベル付けが考えられた。もちろん、好意も。両想いならいいんじゃないか、と流されかけた途端、永久の顔が頭をよぎった。


 永久を、皆を裏切る事は出来ない。ここで流されたら、かつての永久や奏のように、大切な仲間を裏切ったという事実に苛まれ続けることになるからだ。


 だから僕はギリギリセーフなラインを突くことにした。良心の呵責に苛まれない、でも、僕も奏も満足できるであろうライン。


 掴んでいた腕を離して手を肩に回し、奏の右頬にキスをする。国が違えば親しい友人同士の親愛のサインなので、僕も必要以上の想いを込めない。奏の頬が元の形に戻ろうと僕の唇を押し返してくる。それに負けじと強めに唇を押し当てた。


 奏は震えていた。緊張なのか、求めていた事ではなかったのか分からない。もし間違っていたら黒歴史確定だ。奏の心にも傷を負わせてしまう。


 多分、一分くらいそのままで固まっていた。奏の震えはすぐに収まったのだが、緊張してずっと息を止めていたらしい。死ぬ間際に全力で酸素を取り込もうとしたところで僕は離れる。


「今はこれが限界かな」


 照れ隠しに強がりを言う。薄暗い中でも分かるほどに顔を真っ赤にして奏も返事をしてくれた。


「ありがと。それ、正解だね。息を吹きかけられなくて良かったよ」


 奏は八重歯を見せながら、満足そうにはにかむ。奏の求めていたものだったらしい。僕も安心してはにかむ。


 初めて奏の家に泊まった日、帰るならキスをしろとせがまれて、冗談で息を吹きかけたことを覚えていたらしい。あの時はまさかこんなことになるとは思わなかった。


 関係性を口に出す事は奏が嫌っているので「付き合ってくれ」なんて言葉は口にしない。「好き」も言わない。ただ、その場の雰囲気、目線、空気、そういったもので相手が何を考えているのかを感じ取るだけ。


 けれど、奏に触れた瞬間に伝わってきた気持ちは、僕のそれと同じだと思った。お互いに自分の素直な気持ちを言葉にせず伝え合うだけの幸せな時間。それが過ぎ去っていく。


 それと同時に新たな覆面を被る呪いをかけられた。皆の前では奏の事は好きではないと振る舞う覆面。奏も同じだ。


 今、この防音室だけでは、その覆面を取ることを許されている気がした。それでも後戻りができるところまで。行き過ぎはダメだ。


「今度は反対側ね」


 奏はまた目を瞑って顔を前に出してくる。もう一度だけ心に被った覆面を取って、奏の左頬にキスをする。気持ちが溢れる前に顔を離して覆面を被りなおす。もう、これっきりだ。


 奏も同じ事を考えていたのだろう。再びはにかむと、奏は目の前で覆面を被るジェスチャーをする。


「これで、元通りだね」


 元通り。つまり、クラスメイト、友達、バンド仲間。そういう関係性に戻るということ。また覆面を取った暁には近づいてもいいのだろうか。今ここでやり残した事はないのだろうか。そんな事を考えてしまう。


「ふぅ……暑い暑い。いやぁ、人間ってこんなに汗かくんだ。絶対に嗅がせないからね」


 奏は手で体を仰ぎながら僕から離れていく。自分は良くて人はダメというダブルスタンダードっぷりが学校でのしっかりした奏とのギャップを際立たせる。


 そこからは防音室であることをいいことに二人で歌を歌い、ピアノを弾いた。どこを押せばどの音が鳴るかも分からないのに連弾までやった。奏が魔法のような伴奏をしてくれたので、僕が適当に黒鍵を叩くだけでそれっぽい物になっていた。


 誰にも見られていない、聞かれていないというだけでこんなに人は開放的になれるのかと驚く。


 やがて音楽で遊ぶ事にも疲れ、奏は倒れるように横になってしまった。僕も少し距離を開けて横になる。今度は奏は距離を詰めてこなかった。





「……って! 起きなさいって!」


 身体を大きく揺すられて目を覚ます。彩音が起こしてくれたらしい。奏は寒さ凌ぎのために僕の胸元に顔を埋めていた。これはルール違反だと思う。


「おはよう。迎えに来てくれたんだ」


「彩音ぇ。おはよ。なんか慌ててる?」


 奏も体を起こして欠伸をしている。昨日の事を思い出すと自然と赤面してしまうので、家に帰るまでは記憶を揺り起こさないようにしなければ。


「アンタら……呑気すぎるわよ。二人がいないって朝から先生達がずっと捜索してんのよ。まさかとは思ったけど、鍵もかかってたのにどうやってここに侵入したの? ほら、さっさと怒られておいで」


 どうやら結構な時間まで寝ていたらしい。彩音の誘導で先生達のところに向かう。


 そのまま奏と二人で出頭し、先生の気が済むまで怒られた。それでも、奏の優等生貯金はかなり貯まっていたようで、先生の怒り方も思っていたほどではなかった。むしろ、奏に何か強いストレスがかかっているのではないかと心配されるほどだった。


 同級生からは「文化祭のジンクス」が今年も発動したと思われたらしく、僕と奏はそういう目で見られるようになったので、噂を否定して回るのに忙しくなってしまったのだった。

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