第65話 文化祭⑤
トワイライトの演奏が終わった。幸か不幸か会場の温まり方は尋常ではない。生徒だけでなく、先生までが手を上に掲げて拍手を送っている。
「やりやすいのかやりづれえのか分かんねえな……」
僕がベースを持って近くを通りがかると、独り言のように永久が呟いた。永久は当然のように自分たちが勝つつもりでこの勝負を仕組んだ。
トワイライトの最後の曲で明らかに空気が変わってしまい、動揺しているのかもしれない。
「奏の曲は負けてないよ。いや、メロディは勝ってる。大丈夫だよ」
「うん……そうだよな」
六本の弦のチューニングを終えると顔を上げて僕の方を見てくる。前に垂れたままの髪の毛で顔の右半分が隠れているが、それでも永久が笑顔でいることは分かったので、安心して自分の場所に移動する。
準備はすぐに終わった。というかトワイライトがスケジュールを押してしまったのでかなり急かされてしまった。
全員で目を見合わせ、頷くと彩音がカウントを取り、演奏を始める。
初心者バンドがとりあえず手を付けやすい曲。パワーコードにルート弾きにエイトビート。まずはここから、と言われるようなシンプルな構成。シンプルだけど、奥が深い。
このメンバーでやるならもっと複雑な曲をやっても良かったと思ったけれど、ステージを見ている人達の盛り上がりを見ていると、これで良かったと思えた。
皆が知っている曲だとやはり反応が良い。トワイライトのお陰かもしれないが、皆好きなように体を動かして音楽に身を委ねている。
その雰囲気は最後の曲の手前までずっと変わらなかった。最後の最後にバラードを持ってきたのが勿体なかったくらいだ。
ここからが、僕達にとっての正念場だ。この曲で、さっきのトワイライトの曲を超え、なおかつ、奏の両親を振り向かせなければならない。
奏はセンターに置かれたマイクを離れ、自分のキーボードではなく学校の所有物のグランドピアノの前に座る。奏の家にある物とどっちが高級なのだろうと余計な事を考えてしまう。
全員が目を瞑り、深呼吸をして体のバランスを整える。準備ができた人から奏に合図を送る。いつもは奏と僕は上手側と下手側で離れているのに、今日は奏も下手側だ。どうしても奏の様子が気になって、体を少し奏の方に向けてしまう。
奏は一人一人と目を合わせ、力強く頷いた。最初は奏のピアノから入るので、奏の準備が整い次第始まる。
「この曲は、お父さんとお母さんのことを考えて作りました。今、ここに来てくれていると信じて歌います」
見渡す限りの人の山なので、奏の両親は見つけられていない。口ぶりから察するに奏もそうなのだろう。それでも、奏は一縷の望みを託して鍵盤を叩く。
奏はその名に恥じず、イントロから美しい響きを奏でる。短いイントロを終えると、奏がマイクに顔を近づけ歌い始めた。前に奏の家で聞いたスモーキーな声。それを更に煮詰めた歌い方をしている。
スポットライトや色のついた照明のようないい設備はないけれど、暗い体育館にぽつんと浮かぶ明るいステージは奏のものになった。
Bメロに差し掛かってベースとドラムが入る。そっと奏の歌と演奏を持ち上げるように。この曲はあくまで奏が主役なのだ。いつも以上に影役に徹するように意識して、彩音と二人で奏の背後に立ち、触れるか触れないかくらいの力加減で奏の背中を押す。
サビの前になると今度は永久と千弦のギターも入ってきた。二人共、奏の前を守るように優しくギターを鳴らす。永久が大好きなギターの歪みも今日だけは控えめだ。
五人で揃ってサビに突入した。四人のボディーガードに囲まれて、奏はゆっくりと両親に向かって歩き出す。
サビの高音部分、奏は辛そうな顔をしつつも何とか声を絞り出す。練習のときは軽々と出していたので辛そうに見えるのは気持ちが入りすぎている証拠だろう。
一番のサビが終わると、最低限のベースとドラムだけを残してピアノソロパートに入る。奏は一人で両親の前に進み出て華麗に踊り始めた。私を見てくれ、私を聴いてくれ、私を認めてくれ。そんな想いを込めて、鍵盤の上を右へ左へ、奏の手が躍動する。
音符が起毛の絨毯のように敷き詰められた、三連符の連続したフレーズもノーミスで弾ききった。山場を乗り越えたので、奏の少しだけ口元が緩む。
前を見ると、バラードなので棒立ちで聞いている観客が目に映る。何人かの生徒は顔に手を当てているのが見えた。泣いているのだと気づくのに時間はかからなかった。この会場にいるはずの両親。そこにたどり着くまでの通り道にいる人までもを巻き込んで、奏の演奏が、歌が皆の気持ちを動かしていく。
演奏はピアノソロを終えてもう一度Bメロからの流れを繰り返す。奏はソロを終えてもずっと弾きっぱなし歌いっぱなしなのに、いつの間にかポニーテールを成り立たせていたヘアゴムを取っていた。奏の家で何度も見た、風呂上がりの髪を下ろした姿だ。
ボサボサになった髪の毛が奏の顔に巻き付く。口元に張り付いた髪の毛を食べることも厭わずに口を大きく動かしている。
最後のサビ、奏はカラカラの喉から絞り出すように声を出す。届いてくれ。悲痛な叫びのようにも聞こえる奏の歌が終わった。
最後は全員で音を合わせ、振動が小さくなるのに任せてゆっくりとフェードアウトしていった。
余韻。誰もがそれに浸っていて、拍手すら起こらない。音響の当たりから最初の拍手が聞こえた。勝田さんだろう。その拍手を聞いて、素晴らしい物を見た時は手を叩いて讃えるものだと観客が思い出したかのように、拍手喝采に成長していく。
皆、肩の荷が降りたようにホッとした笑顔を見せた。奏だけはまだ緊張した様子だ。
先生の合図で片付けが始まる。観客だった生徒達も、次の出し物までの暇をつぶすため携帯をいじったり、談笑をし始めた。
僕達も後ろのスケジュールを遅らせないために急いで片付ける。
やや雑にケーブルを巻き、楽器をステージ脇から外まで運び出した。一息ついたところで、遠くに父さんが来ているのが見えた。僕を呼んでいるみたいだ。
僕の荷物を永久に預けて父さんに近づく。
「父さん、来てたんだ」
「当たり前だろ? 息子の晴れ舞台だからな」
本当に見てほしいのはここではなくサクシのステージなのだが、そんな事も言えない。
「ちょっと男同士の話をしようや」
父さんは僕を体育館から連れ出す。生徒とその父兄でごったがえす入り口を抜けて、校舎の影に移動した。誰か隠れているみたいだ。
「俺の息子だよ。連れてきたぞ、直樹」
父さんの言葉を受けて振り返ってきた人は、和泉直樹。奏の父親だ。夏休みに言い合いをしたのが最初で最後のコンタクトなのでかなり気まずい。
「お久しぶりです。こんな所にいるくらいなら、中で聞いたら良かったんじゃないですか?」
僕の顔は不快感が丸出しになっているのだろう。直樹さんは「あ……」と喋りだそうとしたがすぐに黙ってしまった。
「奏吾ぉ。お前、もうちょっと優しくしてやれよ。父さんの友達なんだぞ」
父さんが僕と肩を組んで宥めてくる。
「は? 友達?」
「昔一緒にバンドをやってたんだ。今もたまに飲んだりしてるんだぞ。こんな有名人になるなら解散しなきゃ良かったよなぁ」
父さんは嬉しそうに思い出話を語っている。
「いや……父さんがこんな有名人とバンドとかやってたわけ無いじゃん。それならもっと売れてたし、やめずに活動出来たんじゃないの」
「ま、色々とな。それより直樹がお前に話があるんだよ。直樹は言葉遣いがストレートで誤解されやすいんだよ。ちゃんと聞いてやってくれないか」
少なくとも、僕は高校で出会うまで奏の事は知らなかった。家族ぐるみの付き合いではなく、父親同士で個人の付き合いがあったのだろう。
父さんが直樹さんをここまで庇うのだから一応話を聞く気にはなった。
「それで、聞いてたんですよね? どうでしたか?」
直樹さんは目を潤ませて答える。
「良かったよ」
目は潤んでいるが、言葉はぶっきらぼうだ。
「じゃあ、本人の前でそれを言ってあげてくださいよ」
「それは……出来ない」
「何故ですか?」
「幸せすぎたんだ」
感性が前に出過ぎていて話がしづらい人だ。父さんの方を見ると、困った顔をして間に入ってくる。
「感極まってるんだろうな。代わりに俺が話すよ。居酒屋でバッチリ聞いたからな。奏吾も直樹……というか奏ちゃんの家の事は知ってるんだよな?」
「うん。知ってるよ」
直樹さんの方を睨みつけながら言う。父さんはそんな僕を見ても注意するでもなく、ゆっくりと昔話を始めた。
娘が生まれた。妻は丸一日続いた陣痛に耐え切って、赤ちゃんをこの世に送り届けた。私も寝ずに励まし続けたが、生まれた日は何も手につかないくらいの興奮で家に帰っても寝られなかった。
寝られなかったとは言うが、体の機能で強制的にシャットダウンがかかった。シャットダウン中に子供の名前が降ってきた。奏、と名付けようと思った。降ってきた、というのは語弊ではない。本当に閃いたのだ。それでも、一応理由付けは必要なので、二人共音楽に関係する仕事をしているからという安直な理由で妻も納得してくれた。
しばらくは仕事を控えめにして奏と妻の三人で過ごした。奏が幼稚園に入ったくらいで私も仕事を本格的に再開した。
私がこの世に存在するのは新たな曲を世の中に送り届けるため。それだけが生き甲斐でこれまでを過ごしてきた。それは奏が大きくなってきてからも変わらなかった。
だが、復帰したはいいものの、以前のように曲が書けなくなっていた。理由は分からないが、人生で二度目のスランプに陥ったのだ。一度目は結婚直後。夫婦仲が冷えていくにつれてまた曲が書けるようになった。
妻と喧嘩した日は作業が捗った。妻と話さない日の最長記録が伸びるにつれて、クライアントの反応も良くなっていった。よちよち歩きの奏が仕事部屋に遊びに来ると、その日一日はどれだけ机に向かっても一小節も作曲が進まなくなった。
つまり、私のクリエイティビティの根源は「不幸」だったのだ。幸せを噛みしめるほど、自分の才能が吸い取られていく気がした。
だから、家を出た。娘のことは愛している。それでも、音楽を生み出す事を止め、印税でダラダラと生きていく人にはなりたくなかった。
妻の育児の負担を減らすためお手伝いを雇った。お手伝いには私も信頼している昔馴染みの人を手配した。
だが、やがて妻も家を出ていった。理由を聞いても教えてくれなかったが、奏が生まれて以降、夫婦仲は冷え切っていたので時間の問題だったのだろう。
代わりに私が家に戻りたいのだが、家を出てからすこぶる調子が良い。仕事が捗る。
奏は会うたびに大きくなっていく。非連続で成長を観測するくらいには間を空けて会わないと、私の身が持たないのだ。幸せは、私にとって毒そのもの。
たまに娘と過ごすという幸せな瞬間を経験すると、その後はしばらく仕事が出来ずに苦しむのだった。
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