第9話 合宿③

 男子の宿泊部屋を出て、女子の宿泊部屋のドアをノックする。中からは奏が出てきた。ヘアバンドをつけておでこを出して、顔にはパックが貼り付いている。本人はこの格好で出てくる事を気にしてないみたいだ。


「彩音いる?」


「いないよ。結構前に出ていってから戻ってきてないなぁ」


「分かった。ありがと」


 多分どこかで涼んでいるのだろう。ただでさえジメジメしている季節なのに、山奥ということもあって息を吸うと口の中が潤うほど湿度が高い。


 途中、自動販売機があったのでコーラを二本買った。施設の中をウロウロしていると、ベンチに腰掛けている彩音を見つけた。間接照明で照らされた建物がよく見える場所だ。


 横に座ると彩音は何も言わずに少しだけ距離を開けてきた。コーラを渡すと小さくお礼を言いながら受け取ってくれた。


「さっきのこと、ごめんね。寝ぼけてて夢だと思ってたんだ」


「私も夢だと思いたいわよ。あんな恥ずかしい事」


「恭平さんのこと、好きだったんだ。だからベースが変わるのに反対してたの?」


「バンド内で色恋沙汰なんて揉める元だよね。変わってくれた方が言いたいことも言えるなって思った。だけど、私が一番好きなユキさんはステージの上で演奏してる時だったって気づいちゃったから、変わって欲しくなかったんだ」


 奏も言っていたが、音楽に関係ないところで内輪で揉めるだなんて生産性の欠片も無いと自分も思う。サクシのメンバーとして、彩音も他のメンバーとの事を優先して、自分の気持ちを抑えていたのだろう。


「僕がベースを始めたきっかけって話したよね。初めてライブでユキを見た時、本当にカッコよくて、あの姿に憧れたんだ」


「同じ姿に憧れたって言いたいわけ? アンタと共通点なんて持ちたくないわよ」


 コーラの缶を見つめながら彩音が言う。だが、いつものような力強さはない。


「解釈は任せるよ。それで、どうする? 恭平さんならずっと部屋にいると思うよ」


「無理だって分かってるから。前に男の人と腕を組んで歩いてるとこも見たことあるし、私は恋愛対象じゃないって知ってるんだ」


 恭平が言っていた昔の事というのはこの事だろう。デート中に鉢合わせした彩音の気持ちを考えるといたたまれなくなる。


「じゃあ、なんで今日言いに来たの?」


「フラれて吹っ切りたかった。いつまでも居なくなるユキさんを追っ掛けても仕方ないから。演奏中もユキの亡霊を探してるみたいで集中できないんだ」


 彩音は空を見ながら自嘲気味に笑う。リズム隊、つまり、ベースとドラムが噛み合ってないと永久に指摘された。


 彩音は居なくなったユキを追いかけていて、僕は自分の色を出すために必死だった。二人が見ている世界が違うのだから噛み合わないのも当然だと気づいた。


「それなら、もう一回行っておいでよ。恭平さんならきちんと話を聞いてくれるはずだから」


「それでアンタに慰めてもらうって訳か。最悪なプランだなぁ」


 足を伸ばしてベンチを掴み、体を後ろに反らしながら彩音が言う。言葉に棘があるのはいつもの事なので早くも慣れてきている自分がいる。


「慰められるか分かんないけど、いくらでも話は聞くよ。他のメンバーだと言いづらい事もあるでしょ」


 恭平本人が気づいているくらいだし、彩音も分かりやすい性格をしているから好意を持っていることはみんな気づいていそうだが。


 彩音は長く息を吐く。やがて覚悟を決めたように勢いをつけてベンチから立ち上がった。


「おし、じゃあ行ってくるわ。とことん話聞いてもらうから覚悟しときなさいよ!」


 彩音はいつもの威勢の良さを取り戻した。そのまましっかりとした足取りで施設の中に入っていく。


 恭平には難しい役割を押し付けたけれど、年上だしうまくやってくれるだろう。





 三十分くらいすると彩音が戻ってきた。行きと変わらない毅然とした足取りだ。


「しっかり振られてきた。あいつ、私が部屋に入ったらワキ毛剃ってやんの」


 別に男がワキ毛の処理をしてもいいだろう。ユキさんがあいつ呼びになっているし、ワキ毛の件も精一杯の強がりなのだろう。よく見ると頬には涙が伝った跡が残っている。話していたのは正味数分で、さっきまでどこかで泣いていたのかもしれない。


「お疲れさまでした」


 心からの労いを彩音に送る。僕はこれまで恋愛事とは無縁だったので、彩音がどれだけ苦しんだのか分かってあげられないのが歯がゆい。


「あー! スッキリした! ねぇ奏吾。今から練習部屋行こうよ」


「いいよ。やろうか」


 彩音と二人で練習部屋に行く。僕達が練習を切り上げて出ていった時と何も変わっていない。


 ケーブルが挿しっぱなしのギターやベース。彩音がズカズカと歩く時の風で落ちた紙の譜面。隅っこに置いてあるペットボトルの水。ペットボトルは雑菌の繁殖が心配なので後で捨てておくことにする。


 彩音のドラムに合わせて弾いてみると、さっきまでとはまるで違うグルーヴ感が生まれた。彩音はユキの亡霊を追いかけることをやめ、僕と合わせるようにしてくれているみたいだ。僕は僕でユキをイメージしつつも、自分の色を出せるようなプレイにしている。


「いい感じだね。これなら明日で完成するかな」


「甘い甘い! まだまだやるんだからね! 何だか相性が合ってきて、すっごい楽しい!」


 彩音の心に火をつけてしまったのか、最後に意識があったのは外が白んできた頃だった。

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