第2話
「霧丸」
小声でひそひそ話をする者がいる。
「なんだい。みんな、どうして妙ななりをしているんだい」
茶屋の中庭で、小さな頭がふたつ。池のそばの椿の木の陰で。
ひとつは髷を結っていて、ひとつは黒っぽくもじゃもじゃしている。
「今宵はなにか、面白いふん装をする趣向なんだってさ」
「なんだ、化けているのか」
「みんな、うまいことやってるじゃないか。
坊さんに、南蛮人に、唐のお姫様だろ」
だるまの拵えものをかぶっている者もやって来た。
「人だけじゃないよ。ここは江戸の宿屋なのに、南蛮人が泊まるのを許されているから、中をわざわざ出島の茶屋みたいにしてるんだって。そういう宴会なんだってさ。
どこもかしこも、みんな化けているんだ」
なんだ。ここは江戸か。
しかし、この小僧たちはどこまでお気づきか。南蛮人の宿泊が許されているこの宿、扮装に隠れて実に様々な顔が紛れている。長崎奉行の役人、大店の商人と番頭、蘭学者、通詞、まだまだありそうだ。
「こいつは、おいらも負けてはいられないな」
「そうだ。
そうして吉っつぁんと呼ばれた方、何かもぞもぞしていたかと思うと、
「ようし、いいぞ」
霧丸と呼ばれた方がはしゃいでいるが、こちらからその姿は、髷と、もじゃもじゃより見えない。
そんな様子を知っているのかおらぬのか、虎は静かに寝息をたてている。
立派な縞の毛皮が、饅頭のようにふかふかと丸まっているばかりで、顔は見えない。
「まず、先達の筆による虎を、許されただけの数を見た。長者連中の蔵で虎の毛皮を見て描いたもの、唐渡りの絵を手本としたもの、単に虎猫を手本としたものもあったな」
旅の僧が、自分が描いたという虎の絵について講釈をはじめ、通詞が難しい顔をした。
虎の絵の先達と言えば、長澤芦雪、丸山応挙、東東洋などがこんにちに伝わっているが、後世まで伝わらずに市井にまぎれたすぐれた描き手もこの時はいくらでもいよう。僧はそのような知られぬ名人のものも含め、よほど多くの虎の絵を見てきたのであろう。
「見世物もあったと聞いているが」
通詞が、南蛮人の言葉を伝える。
「ああ。もちろんそれにも飛んで行ったよ。
雌の虎がいた。縞じゃなくて、こまかい鹿の子柄だった。
しかし俺は縞の虎が描きたかった」
この頃の日本国では、雄の虎には縞があり、雌の虎には玉を散らした模様があると思われていたようだ。
後世、それは豹と呼ばれるもので、別の獣であると理解が進んだが、この時分では、見られるものは毛皮や絵の虎ばかり。見世物で虎の檻がかかっても、まことに虎であったのか、うたがいが消えぬありさまであった。
「それでも、いまひとつ何か決まり手に欠けてな。猫も見た。
それで出来たのが、あの虎だ」
あっ、虎が目を覚ます、と、酔った者たちのひとりが声をあげた。
「……!」
南蛮人が、通詞に何事かを伝えている。
「みなさま、どうぞ檻からは離れてご覧ください」
宿屋の主人が呼びかけていた。
のっそりと、虎が頭を上げ、こちらを見た。
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