第3話
「なんだ、これは」
通詞が、ごく真面目に南蛮人の言葉を伝える。
「あれが虎などであるものか、大化け猫ではないか」
宿屋の主人が飛び付いて、通詞の口をふさいだ。横槍は困るのだ。これは虎なのだ。
「虎だ!」
「これが虎か」
酔っぱらいどもは、浮かれるばかり。
「にゃおーん」
〈虎〉が吠えた。
しかし、ここにいる大半は、虎の本当の吠え声など聞いたことがない。ひどく猫の鳴き声に似ているが、そうか、虎とは猫の親玉であるのか。
これが、檻の中の虎である。
顔は。
みごとなたれ目で、じつに眠たそうである。ぼさぼさのひげがはえた口元はゆるんでいて、いつも笑っているように見える。
丸い耳。黄色に黒い縞。強そうな太い手足。
「これが人をのんでいるというのか」
酔いが醒めた者がいる。
「それで誰も退治せぬというのか。嘆かわしいことだ」
「のむもんかね!」
南蛮人が通詞を通さず、出し抜けに申したので、周りは驚いた。
「まったく、なっとらん、なっとらん!
君の絵は、まるでだめだ! 特に虎の絵は!」
「手厳しいですなあ、バーレント殿。
いや、師匠」
バーレント・バルテリンク氏。
オランダ商人の友人に同行し、出島でぶらぶら暮らしていた絵描きである。どうもリスボン風の名ではない。それのみならず、なぜ、身をやつすための吉利支丹の僧衣など持っているのかも、わからない。
旅の僧は、彼を〈師匠〉と呼んだ。
彼もまた絵師で、だが、僧侶であるのは本当らしい。剃髪を長い間してはおらぬようだが。
「こんな体たらくで私から遠近法を学んだところで、どうなるというのか!
色刷り版画の構図の鋭さも、省略された描写の繊細さにも欠ける! お前は本当に日本の画家か!
言いたい放題言われたところで、萄酒の杯が重なるのみである。
「やれやれ」
くたびれた通詞も、一杯やりだした。元来真面目な侍、田所千代之助殿であるが、虎にしろ、この二人の絵師にしろ、どうも付き合い切れぬ、といったところか。
「にゃおーん!」
そうする間にも虎は吠えて、明春はまた、呵呵と笑うのであった。
「ああ、まこと便利な絵筆であることよ。自分が何を描いたのか、絵そのものが、かようにして教えてくれるのだからな」
「絵筆ですって」
唐風の女が近寄ってきた。
「先ほどから大きなお声で、あの虎は、もとは絵だとかなんとか。いったい、何ごとでござんしょう」
「聞きてえかい」
明春が、にやりとする。
「エエ、聞きとうござんすねえ」
「あれは、俺が修行の旅に出てまだ間もない頃だった……」
もったいつけて始まる話、いったい何が飛び出すやら。
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