虎のはなし
倉沢トモエ
第1話
吉利支丹信徒に知られる聖人、聖フランシスコ・ザビエル。
のちに画工が二十枚の絵に残した軌跡によれば。
南蛮国ポルトガルの港リスボンを発ち、インド、日本を巡り、志半ばで帰天するまでの間、訪れた土地で神の言葉を伝え、病を癒し、死んだ族長を甦らせたと。
いやはや恐れ入る。
これはそれから百年は経ったころの話。
長崎は出島にある茶屋の隅らしきところで、坊主ふたりが何やら問答をしていた。異教同士の坊主がふたりもいれば、それは問答がはじまるというもの。
らしきところ、と申すのは、なるほど、南蛮風の椅子と卓が並び、色とりどりのランタンがあでやか、ギヤマンの杯には赤い葡萄酒、茶屋の中はそのように見えていた。どこから集めてきたのか、通りすがりに覗いた小僧にはわからぬ。
「あはははは」
甲高く笑うのは、牡丹の刺繍が入った唐風の赤い着物をまといひときわ目立つ女。唐風、なので、まこと唐より渡ったものかはわからない。
商館の奥方という触れ込みで、酌のためにいるのではないようだが、奥方、と呼ばれる身分で、あんなあけすけな笑いかたなどあるだろうか。どちらの商館であるのか、誰も酔いが深く、これもまた、たしかな話は聞けそうにない。
「なんですの、あの檻の中は?」
茶屋の奥には鉄の檻があって、薄暗い片隅でなにかが背を向け丸くなって眠っている。
「虎ですよ」
「まあ、こわい」
さてはここは本日、見世物茶屋の趣向があるのか。
「人をふたり丸のみして、眠り続けているということですよ」
「あらまあ。具合でもわるいんだろうか。悪い人間でも食べて当たっちまったのかね」
奥方は虎の容態を気にしているようだが、対する相手は酔っていて聞いておらぬ模様。
「それが、のまれたのは善男善女ですから、いたましい。病持ちのおっ母さんと、その小さいせがれでさあ」
「まあ、なんてこと」
「眠っているうちに腹を裂け、裂け、と、やかましいんですが、これがなかなか、むつかしいということでね。
今更かたき討ちで腹を裂いたところで、出てくるのは、されこうべふたつでしょうよ。くわばらくわばら」
さて、話がそれた。問答中の坊主ふたり。
ひとりは墨染の衣をつけた、いや、かつては墨染の衣だった襤褸に荒縄の帯を締めた、旅の僧という風体。
もうひとりは南蛮人だった。彼もまたザビエルと同様、リスボンから参ったとの触れ込みである。
キリシタン教会の僧形、こちらも継ぎだらけのみすぼらしい風体。
それでも徳ある高僧ならば、それなりにありがたく見えてくるものだが、ぎょろりと疑い深い目つきといい、妙にねじれた笑いかたをする口もとといい、こ狡い顔つきをしている。商人であったら、けして気を許してはならない顔だ。
「そは悪魔の所業なり」
と、南蛮人の傍らにいる通詞は申す。目もと涼しい若い侍の風体である。
「ほう、では、わしのような絵描きは悪魔ですと」
旅の僧は面白そうに返す。
通詞がそれを伝える間、旅の僧は葡萄酒をあおり、また注ぐ。
「人の子は、悪と申すよりは、罪あるもの。
あめつちを創り給うものは、唯ひとり天上の御方のみなれば」
通詞の言葉に、旅の僧は呵々大笑して、
「師よ。なるほど、仰せの通り、わしの所業は悪であろう」
旅の僧の弁舌はにわかになめらかになった。
「でうすがあめつちを創り、命あるもので満たした。
しかし、でうすならぬ、この俺が、絵筆をひとたび執ればあの通り」
その指は、虎の檻を指している。
「あれは、もとは俺が描いた虎だからな」
なにを申すのか、あの坊主。
聞きとがめたひとりふたり、こちらを見る。
「そう、俺の絵から抜けたのがあの虎よ。そうしてあやつは人をのんだときて、なるほど、神も恐れぬ所業だ」
まことかどうか詰めるにしても、あまりにも皆、酒が回り過ぎていた。
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