第8話 敬語攻め秘書×社長 【社長室での秘事】



「ほら、こんなに汚して。はしたないですよ。社長」


 ネクタイを締めなおす佐伯を見て、悔しい気持ちでいっぱいになった。


「だ、誰のせいだと思っている!」


「あなたがしでかしたことですよ。誰のせいでもありません。それとも、私のせいだとでも言いたげですね」


「そうだ。お前のせいだ!」


 「ふふ」と余裕の笑みを見せる佐伯の笑顔は眩しい。そうだ。僕はこの男にすっかり魅了されているのだ。



 ***


 父が死んで、小さいながらにも社長の座を継ぐようにと言い渡されたのは、僕が二十歳の時だった。まだ大学に通っている最中で、まさか自分が社長になるとは思わなかった。いずれは父の後を継いで——そんなことを薄々感じとっていたおかげで、経営術を学んでいる最中だったというのに。父の死は急だった。


 右も左もわからずに突然、社長席に座らされて、狼狽えていたおれを支えてくれたのが、父の秘書を務めていた佐伯という男だった。

 彼は年齢不詳だ。いつから秘書をしているのか、おれには皆目見当もつかない。ただ、気が付いたら、父の隣にいて、そつなく仕事をこなす有能な秘書だというだけのことだったのだ。


 確かに。一緒に仕事をしてみると、正直に言って、僕はお飾りみたいなものだった。一から十まで、すべて佐伯が段取りをしてくれるのだ。僕は、言われた通りに書類にサインをし、そして言われた通りに言葉を伝えるだけ。そうすると、なにもかもがスムーズに進んでいくのだから驚きだ。


 社長が死んだということで、父と懇意にしていた取引先の人たちとの関係性が、一瞬希薄になりかけたが、それも佐伯が段取りをしてくれて、僕が付き合いやすいようにしてくれた。わが社の業績は維持―—いや、少しずつだが上向き傾向。


 二代目社長としては、なんとかメンツを保てているというところなのだが——。


 問題はこれだ。佐伯は父にも同様のことをしていたとは到底思えないのだが。時々、ご褒美だったり、お仕置きだったりという名目で、僕の体に触れてくる。いいや、触れるだけならまだしも、舐めたり、噛んだりしてくるのだ。そのたびに、僕は抗おうとするのだが。いや。きっと本気ではないのだろうか。いやいや。嫌なんだ。そんなことは——。


 先程までの情事を想像し、悶々とした気持ちで書類を眺めていると、総務部長の梶野さんが血相を変えて入ってきた。

 梶野さんは父の友人で、この会社を創業以来、ずっと支えてくれている信頼置ける人だ。


「社長。大変なことが——。ライバル社のAコーポレーションが、わが社の乗っ取りを計画しているということが発覚しました。しかも社内に内通者がいるようでして」


「内通者?」


「社内で厳重に管理されている、一般職員では知りえないような情報が流出しております」


「一体、誰がそんな——」


「ご存じではありませんか? 佐伯はAコーポレーション会長の孫なのですよ」


 目の前が真っ暗になるとはこのことだ。僕はただ茫然とそこに立ち尽くしていた。


「佐伯はそうそうに退職していただきましょう。この件はわたくしがうまく処理しておきます。大丈夫です。佐伯さえいなければ、これ以上、事態が悪化することはありませんよ――」


 

 ***


 結局。梶野さんの言葉をよく覚えていない。社長室から外を眺めていると、扉がノックされて、佐伯が顔を出した。


「午後の外勤に行くお時間ですが」


「佐伯」


「なんでしょうか」


 彼はいつもと変わりのない表情でおれを見返してくる。


 ——どうして? 裏切ったの? 僕は、僕は佐伯のことを信頼していた。確かに嫌なことをする男だけど。それでも、きっと僕のためにしてくれていたんだって信じていたのに……。


「佐伯。お前はAコーポレーション会長の孫だそうだな」


 彼は眉を少し動かしてから「そうです」と答えた。


「どうしてそれを僕に言わない」


「尋ねられませんでしたから」


「でも、それじゃあ。なあに? ライバルの会社に入り込んで、キミは一体、なにをしようとしていたんだ」


 佐伯に裏切られたことがこんなにもショックだなんて。いいじゃないか。そもそもが嫌な奴だ。出て行ってもらえばいいだけの話なのに——。


「別になにも。自分の職務を全うしていただけです。祖父とは絶縁状態です。行くあてのない私を、あなたのお父様が拾ってくれました。ですから、私はここで命を懸けて恩返しをしていくつもりです」


「嘘だ、そんなのは、嘘だ」


「信じるかどうかはあなたしだいです」


「どうしてそんなに冷たいんだよ……っ」


 涙があふれて止まらない。両手を握りしめて、目に蓋をするかのようにあてがっても、涙はとめどなく流れてくるのだった。社長室には、僕の嗚咽しか聞こえない。一体どのくらい、その時間を過ごしたのだろうか。

 ふとバリトンの優しい佐伯の声が響いた。


「黙っていたことは謝罪いたします。ですが、恩返しをしたいのは事実なのです。しかし私に対しての疑念が晴れないのであれば、このまま解雇してくださって結構です」


「解雇だなんて……そんなこと、そんなこと……」


 ——できる訳、ないじゃないか……。


 社長デスクに両手をついて黙り込むと、佐伯がそばに寄ってきた。それから、戸惑いながら、迷っているかのように、僕の腰を引き寄せて抱きしめた。


「すみません。職務の範疇を逸脱してしまったことは重々承知しております。ただ、どうしてもあなたが可愛くて、堪らないのです。あなたのお父様は、いつもあなたを気にかけておいででした。自分に何事かがあったら、キミに託す。そう言い含められてきました。ですから、いざそうなった今。私はあなたに精一杯のことをして差し上げたい。ですが、まだまだ未熟者です。私欲が勝ってしまったのでしょう。申し訳ありませんでした。——それでは、これでおいとまさせていただきます」


「佐伯!」


 僕の目の前から立ち去ろうとする彼の腕をつかんで引き寄せる。今度は僕が彼を抱きしめる番だ。


「社長」


「どこにも行くな。僕にはお前が必要だ。お前を信用するという判断は、何の根拠もなくて、社長としては失格なのかも知れないけど。本能でわかる。お前は信用に値する」


 ——だって、肌を重ねている間。お前はずっと僕のことを『好きだ』って言ってくれていたじゃないか。


「社……いや。れん。私はあなたを愛しています」


「僕も。佐伯が好き」


 涙で濡れている頬をなぞる佐伯の舌は熱い。僕は佐伯が好きだ。



***



 結局。内部調査を進めた結果。内通者は梶野さんであったことが判明した。梶野さんは、父の後を継いで二代目社長に就任したかったようだ。それは当然のことだ。息子だからといって、こんな訳の分からない僕なんかが二代目に就任。しかも、ライバル社会長の孫が秘書でついているのだ。面白くないに決まっている。Aコーポレーションの会長は、孫である佐伯もあわよくば引き取りたかったようだ。梶野さんの悪事が露呈して、すべては泡になったのだが。


 それから、僕は社長業をやりながら大学に復帰した。経営学を学ぶためだ。佐伯にばかり任せてはいられない。そう、僕は社長なのだから。



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