玉蜻

 怖いほどに綺麗で冷たい部屋はもうここにはなかった。ここにあるのは、雨音が彩る暖かい部屋だ。

 天音と名乗った美しい少年がこの部屋にいることで、部屋は一層完成され居心地が悪くなるのではないかと思われたが、そうでもなかった。

 瑠璃は天音という少年のことが段々とわかり始めてきていた。

 このような家に住んでいるといっても、少年は関わりにくい人というわけでもなかった。表情は固いが瑠璃が投げた会話をしっかりと返してくれている。少々口下手ではあるが、それが人間らしくて良いと瑠璃は思った。

 あまりにも良すぎる造形のあまり、瑠璃には天音が大人びて見えていた。だが、少年はやはり少年だった。慣れない人との会話に戸惑ったり、目を逸らしたり年相応だ。

 天音との間に穏やかな時間が流れる中、瑠璃の携帯が鳴った。

「ごめん、ちょっと出るね」

 電話の相手は父だった。

「もしもし、お父さん?」

『瑠璃?さっきはごめん、もうちょっとで家に着くから....雨は大丈夫?』

瑠璃は苦笑して、

「うん。あのね、今、久遠さんの家で雨宿りさせてもらってるの」

瑠璃がそう言うと、電話越しの父は大層驚いた。

『そ、そうか.....へー、いや、これは驚いたな。でもそうだな、その方がいい。じゃあ、もう少しだけ久遠さんのとこで待っててくれ。あ、お礼を言いたいんだけど、代わってもらえる?』

父がそう言ったので、瑠璃は天音に問いかける。

「天音くん、お父さんがお礼したいらしくて、電話でてもらってもいい?」

「え、あ、はい」

瑠璃は天音に携帯を渡し、天音はそれを受け取った。

「もしもし...」

『あ、どうも、瑠璃の父です。この度はありがとうございます、瑠璃が雨宿りさせてもらっちゃって』

 電話越しの他人の明るい声にビクビクしながらも、天音は精一杯慣れない電話に対応した。久遠邸には電話がかかってくることは少ない上に、かかってきても猿渡が出てしまうので、天音には電話の経験がほとんどなかった。

『いやあ、久遠さんがいい人でよかったです。後日、改めてお礼に伺いますので』

 天音は一瞬ひやりとした。だが、それを拒否することもできず曖昧に返事をして会話は終わってしまった。

 携帯は瑠璃に返され、少しするとその電話も切れた。

「それじゃ、私帰るね。お父さんもそろそろ着くって言ってたから。長居するのも悪いし」

「あ、うん...そっか...」

 天音は素直に彼女の帰宅を喜べなかった。

 瑠璃が帰るのが寂しかった。彼女が帰ってしまえば、ここは再び静寂に包まれる。今まで通り、静寂と絵だけが存在する家に戻るのだ。

 だからと言ってどうにかできるものでもない。幸いにも天音は諦めることには慣れている。

「タオル、洗って返すね」

「いや、大丈夫。そのまま置いていっていいよ」

 瑠璃は一瞬申し訳なさそうな顔をしたが、じゃあと言ってタオルを畳んで立ち上がった。天音もそれに連れて立ち上がった。

 天音が玄関まで送っていくと告げると、瑠璃はありがとうと微笑んだ。

 客間の襖を閉め瑠璃たちは廊下を進んだ。瑠璃は天音の後を少しだけ遅れてついていった。

 瑠璃が見つめた少年の後ろ姿はやはり変わらず美しかった。照明に照らされた黒髪も艶めいている。シンプルな白シャツが余計な皺を刻んでいないことから、体を歪ませることなく少年が立っているのがわかる。

 変わらず美しいとは思う。だが、きた時のような気持ちはもうどこにもなかった。

 廊下を抜けた。玄関にたどり着く。

 雨音は未だ響き続けている。瑠璃は玄関に揃えて置かれたローファーを履いた。

「今日は本当にありがとう。天音くんがいてくれてよかった」

 天音の方を振り向いた瑠璃は感謝を伝えた。彼がいなければ、今頃瑠璃は頭の先から靴底までずぶ濡れだ。

 瑠璃の発言に天音は驚いたのか、固まった。が、すぐにハッとして、俯きながら大したことじゃないと言った。

 しかし瑠璃はもう一度感謝を伝え、玄関を開けた。開けると同時に、塞がれていた雨音が大きく響いた。雨はまだまだ強いままだった。

 しかし、家までなら耐え切れる距離だ。瑠璃はそのまま玄関を越えようとした。

「あの」

 突然の天音の声に瑠璃は視線を家の方へ戻した。

 天音は慌てて傘立てから薄萌葱色の傘を取り出し、瑠璃に差し出した。

「傘、濡れるといけないから、これ....それから、」

 少年は一瞬躊躇ったが、浅く息を継いでから言った。

「また、いつでも雨宿りに...来ていいから....」

そう言った少年の瞳は光を多く宿しながら揺れ、傘を差し出した手は微かに震えていた。

 瑠璃はこの家に入ってから、むしろ天音を見てからずっと思っていた。あまりにも美麗すぎるこの少年が送っているのは、おそらく普通ではないのだと。

 彼の美しさは、おそらく普通のそれではない。彼が持つのは性別に固執した美しさではなく、人の顔として最上のそれだ。俗な美しさなどではなく、むしろ俗には馴染まないほどのものだった。彼がこれまでの人生の中で関わってきた人たちに、それが何かしらの影響を与えてきたのは間違いない。

 加えて、こちらへ来てから、近所の人たちとそれなりに慣れてきた瑠璃だったが、その誰一人としてこの少年のことを口には出していない。瑠璃がここはどんな街かと聞けば、何もない小さな街だと皆が口を揃えてこう言った。何人かは久遠邸の話もしたが、そこに住む絶世の美少年の話はしなかった。猿渡のことはよく知られていたが、もう一人には会ったことがないと言った。引越しの挨拶のあの日以降、瑠璃が聞いたのはその程度の情報だった。

 これらに加えて、今日少年と会話した中で、彼は自分と同い年だ。それを踏まえて考えてみると、不自然すぎる。街一番の大きな古い家に住む年頃の美少年のことを誰も知らないなんて、普通ではない。

 久遠天音という歯車は確実に存在しているのに、世界のどの歯車とも触れさえしていない。自分たちの歯車が回る中で、彼の歯車だけが遠く離れたところで勝手に回っているように。

 震える手が何を示しているのか、詳しくはわからない。もしかすると、それはとてつもなく大きな問題で、そこに他人が触れるのは避けるべきことなのかもしれない。

 でも。

 瑠璃は差し出された薄萌葱の傘に手を伸ばし、それを柔らかく受け取った。

「傘、ありがとう。今度雨が降ったときもよろしくね?」

 冗談じみた瑠璃に、少年は一瞬驚いた後、初めてふわりと口元を緩めた。

 その天音の顔は、今日瑠璃が見てきたものの中で、一番綺麗だった。

 震える手は、止めてあげたいと思った。

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