名前

 先ほどの言葉の意味を十分に理解してから返答すべきだったと瑠璃は激しく後悔した。

 ぼんやりと返事をした瑠璃は、天音に連れられるまま門、そして玄関を通過した。

 そして現在、瑠璃は客間に連れられるため長い廊下を歩いていた。少し前を歩く天音に続いて歩いてみたものの、瑠璃の頭は緊張で満たされていた。

 由緒ある久遠の大きな家というだけでも、一般人の瑠璃にとっては十分すぎるほど緊張するのに、美しい絵画が飾られた廊下を歩かされるなど、すでに倒れそうだった。

 瑠璃は前をゆく天音の背中を見た。この美少年も瑠璃にとっては緊張の対象である。あまりにも浮世離れという言葉がよく似合う少年は、廊下の絵画に目をくれることもなく静かに瑠璃の前を歩いていた。

 少年が目もくれない絵画だって、何枚も飾られているその全てがどれも一級品なのは美術に疎い瑠璃にでもわかるくらいに美しかった。

 家そのもの、そこにある装飾品の絵画、そして家の主。この家はどこを切り取っても美しすぎた。

 瑠璃はなぜ自分はこの空間にいるのだろうかと考えざるを得なかった。

 壁面にある絵画たちが瑠璃をじっと見ているような感覚に襲われた。美しくないものを排斥するように、じわじわと瑠璃を圧迫し、足が止まりそうになった。

 それでも、なんとか少年に追いかけ、無事に客間についた。少年が瑠璃の方を振り返り、

「こちらで待っていてください。今、タオルを持ってくるので」

と言って、瑠璃は広い客間に取り残された。なお、客間もつつがなく作り込まれ、掛け軸が飾られていた。まさに『美しい』客間であった。

 さながら家全体が美術館だった。

 綺麗で居続けることを強いられているようで、素敵な空間のはずなのに、絶妙に居心地が悪い。物音も一つもしない。この部屋も、この家も誰も居ないようで、あまりにも無機質すぎる。

 この部屋で一人でいるのは気が滅入る。瑠璃は少年が早く来てくれるようにと心から願った。

 瑠璃の願いが通じたのか、廊下から足音が聞こえた。足音は徐々に近づき、客間の前で止まった。

 襖が開き、少年が顔を出した。

「あの、これ使ってください。風邪をひいてしまうとあれなので...」

そう言って少年は瑠璃にタオルを差し出した。高級そうなタオルで少し気が引けたが、このまま部屋に雫を落とす訳にもいかないので、瑠璃はそれを受け取った。

「ありがとうございます」

 瑠璃が礼を述べると、少年は少し戸惑った様子で瑠璃から視線をそらした。

 その仕草が瑠璃にとっては驚きだった。と同時に、安心した。

 この家で今日、瑠璃が見てきたものは、あまりにも美しすぎるものたちだった。あまりに綺麗すぎて、生活感が感じられないくらいに。もちろん、この少年自体もそうである。その美しさゆえに人間味がないとすら瑠璃は思っていたが、人間らしい仕草をやっと見ることができた。

 瑠璃はそんな少年に興味が湧いた。

「あの、せっかくなのでお話しませんか?」

 少年は驚いたように瑠璃の方をじっと見つめていた。

 

 天音は間に机を挟んで少女が座っている場所の目の前に座った。

 家にあげたのはいいものの、ここから先のことはどうすればいいのか天音にはわからなかった。

 誰かを家に招くなど当然したことはないし、客をもてなすというのも、もちろんない。

 話をしようなどと言われても、どんなことを話せばいいのかもわからなかった。むしろ、会話が進むにつれて外見のことに触れられるかもしれない。そう思うと、正直会話などしたくはなかった。

「雨宿りさせていただいてありがとうございます。助かりました」

戸惑う天音に、少女はにこりと笑って感謝を述べた。

 猿渡以外では初めての他人の笑顔に天音は一瞬固まって、ハッとして返事をする。

「いえ、えっと....困っていたら助けるように言われたもので....」

この言い分では、猿渡が言わなかったら助けなかったと言っているようなものじゃないか。そうではない、天音は自分の意思で少女を家にあげたのだ。訂正を試みようとしたが、それは阻まれた。

「もしかして、猿渡さんにですか?」

 瑠璃が尚もまっすぐに天音の目を見ながら問いかける。あまりにもまっすぐな視線に、天音は目をそらせなかった。

「は、はい、この前引越しの挨拶に来てくれた時に猿渡が....。とてもいい人たちだったと言っていました」

 少女は天音の話を真剣に聞いてくれた。そして天音が言い終わると、ほっとした顔で、

「よかった....」

と、表情を和らげた。

 天音は猿渡が彼女に謝らせたと言っていたことを思い出した。それを申し訳なく思っていることも。言うべきか迷ったが、彼女の様子を見るに気がかりだったのは明らかだった。

 天音は恐る恐る少女に語りかける。

「猿渡が申し訳ないと言っていました。その、あなたに謝らせてしまったこと」

「猿渡さんが申し訳なく思う必要なんてないんです。あれは私が悪かったので」

 少女はそう言うと、少し俯いた。それを見て、天音も目を伏せた。

 あなただって悪くない。悪いのは、自分だ。

 そう言えてしまえば、どれほどよかっただろうか。彼女に言ってしまえば、ここまで問題なくできている会話が、壊れてしまう。そう思うと、何もないのに喉がつっかえた。

 顔をあげた少女は、先ほどまでの笑顔を顔に浮かべて会話を続けた。

「あの、お名前聞いてもいいですか?苗字は久遠さんだと思うんですけど...」

「名前...?」

 あまりにも急な質問だったので天音は狼狽えた。そんな天音を見て少女は慌てて理由を付け足した。

「えっと、ほら!せっかくお隣なので、これからもよろしく願いたいと思いまして....よろしければ、ですけど」

 お隣でも関わることにはならないのだが、と心の中で思いながらも、天音は自然と答えをこぼしていた。

「天音です。久遠天音」

 少女は天音、と小さく呟いたあと、「素敵な名前ですね」と、ふわりと笑った。

 天音は不思議と、彼女が笑うたびに目を奪われた。それだけじゃない、なぜか彼女に聞かれたことには正直に答えてしまう。

「私の名前は瑠璃です。宮前瑠璃」

「ああ、この前猿渡から聞きました。その....素敵な名前、だと思います」

 天音の呟きに少女は照れ臭そうに笑って見せた。

 本当は、綺麗な名前だと言ってみたかったが、自分を縛る言葉を誰かに放つ勇気なんて、天音は持ち合わせていなかった。

 会話が止むたびに外の雨音が現れる。雨は段々と強さを増し、数分前よりもだいぶ音が激しくなっていた。

「雨、やまないですね」

 瑠璃も雨音に気づいたらしかった。そんな瑠璃を見て、やはり選択は間違っていなかったと、やっと天音は思うことができた。

 彼女が多分いい人だということを天音はわかり始めてきた。一定の距離を保ち続ければ、問題なく今日を終えられるだろう。

 今日が終われば、の後を考えたくなかったのは、なぜだったのだろうか。

 恐る恐る、自分から話題を提示してみる。

「...あの、敬語じゃなくていいですよ。同い年なので....ああ、この前猿渡から4月から高校に行くって聞いてたので、それで...」

 頑張って投げてみた会話も、やはり上手くはいかなかった。もっと上手く伝えられるはずなのに、それができない自分が情けなかった。

「同年代くらいかなって思ってましたけど、同い年だったんですね!嬉しいです...じゃなくて、嬉しい!」

 瑠璃はそう言って、笑ってくれた。

 天音にとってはその笑顔が、何よりの救いだった。自分が会話が得意ではないことはわかっているし、おかしく思われたって変ではない。それを彼女は、いとも簡単に受け止めて返してくれるのだ。

「それじゃあ、久遠さんも敬語はなしにしようよ。ああ、それと久遠さんってのもあれだから...」

 瑠璃はこれまで以上に天音の眼を見つめて、

「天音くん、って呼んでもいい?」

 自分の初めて聞く名前の響きに、天音はむずがゆさを覚えた。でも、それでも、嬉しかったのは間違いなかった。

 自分の名前が誰かに呼ばれる日が来るなんて、昨日までの天音には微塵も想像できなかった。だが、今呼ばれたのは、間違い無いのだ。

 天音は震える口で、答えた。

「うん、それがいいよ」

 瑠璃は一層にっこりと微笑んで、

「私のことは、瑠璃でいいからね」

と、言った。

 天音は口の中でその名を転がした。改めて、意味も響きも素敵な名前だと思った。綺麗な、名前だと思った。

 天音は瑠璃を見た。目を逸らすことなく、しっかりと彼女の瞳を覗きながら、

「これからよろしく、瑠璃」

 彼女は嬉しそうに返事をした。

 初めて呼んだ誰かの名は、誰よりも美しく、温かい響きだった。

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