慈雨
いつも通りの朝を迎えるはずだった。
目覚ましの音で目覚め、朝食を作り、父と一緒に家を出る。それが瑠璃にとっての当たり前の朝だった。しかし、それが今日は実現しなかったのだ。
瑠璃はいつもより20分遅れで通学路を走っていた。
瑠璃たち親子がいつも通りの朝を迎えられなかった理由は目覚まし時計によるものだった。瑠璃が使っていた目覚まし時計の電池が夜中に寿命が尽きていたらしく瑠璃は寝坊をかました。
しかし、不幸は重なり、瑠璃だけではなく優もアラームをかけ忘れていたため、親子二人で寝坊をかました状況が出来上がった。
目を覚まし、時計が指していた時刻が3時43分に気づいた瑠璃は慌てて携帯の時間を確認した。
30分の寝坊だった。ベッドから起き上がり、大急ぎで台所へ向かった。
瑠璃はもう一度ゾッとした。キッチンが使われた形跡がないのだ。つまり、父が朝食を摂っていないことを意味していた。
瑠璃は急いで優の寝室の戸を開けた。優は、ぐっすり眠っていた。瑠璃はそれを叩き起こし、寝ぼけた父に現在の時刻を告げた。その時の優の顔はまさに「絶望」そのものだった。
それから二人で大急ぎで支度をして、瑠璃はいつもより20分遅れで出発の準備ができた。
「私先に出るからね!お父さん戸締りよろしく行ってきます!」
遅れを取る父を置き去り瑠璃は急いで家を出た。
しかし、不思議路不運とは続くもので急ぐあまり瑠璃は鍵を玄関に置きざりにしていたことに気がつかなかった。それに気づいたのは学校に着いてようやくだった。
時間ギリギリに来た瑠璃を珍しがった志帆が、何かあったのかと心配したので、瑠璃は朝起きたことの一部始終を話した。
「朝の情報番組見る暇さえなかったよ。間に合ったからラッキーだったけどね?」
「そうだね。あ、でも天気予報見た?アプリとかで。今日夕方から雨降るってよ」
瑠璃は心の底から目覚まし時計を恨んだ。
「どうしよう、傘もないし鍵もないから家の前で雨に打たれるしかない....お父さんだって早くても6時すぎないと帰ってこないし....。」
終わったと思った。瑠璃に残された道は学校で時間を潰すしかなかった。しかし、それだって名案とはいえない。学校で過ごしている間に雨が降ってきたら結局家まではずぶ濡れだ。だからと言って、家の前でずっと待ち続けるわけにもいかない。
瑠璃は父が帰ってくるまでの辛抱だ、と言い聞かせた。
「私も今日は部活だから確実に雨降る時間に帰るから傘貸せないんだ。家もあんまり近くないし....ごめん!力になれなくて!」
志帆が謝るのを瑠璃は慌てて制する。
「志帆ちゃんが謝ることないよ。全部目覚まし時計の電池が切れたのが悪いんだからさ、ね?....まあ、図書室で時間でも潰すし、大丈夫だよ」
うん、きっとなんとかなるよ、と志帆に告げる。彼女はそれでも心配してくれたが、こればかりは如何しようも無かった。
瑠璃は優に鍵を忘れたことを連絡すると、今日は早めに帰ってくるように調整すると返信がきた。5時過ぎに帰ってくるとのことで、絶望の中に希望が差し込んだ。
その後、瑠璃は朝の喧騒が嘘かのように、1日をいつも通りに過ごし、放課後を迎え図書室で時間を潰した。
そうしていると、時刻は間も無く5時を迎えようとしていた。優から続報もなかったが、問題ないだろうと思って瑠璃はそのまま学校を出た。
外は既に少し雨が降っていたが、これくらいの雨ならば大したことはない。むしろ思ったより降っていなくてよかったくらいだ、不幸中の幸いとすら思った。
しかし、急がなければ強く降ってくるかもしれないと思ったので、瑠璃はなるべく早足、時に駆け足で帰路を急いだ。
学校では弱かった雨だが、家に近づくたびに強くなり、ようやく家についた頃には土砂降りになっていた。しかし家には着いたので全く問題はなかった。
はずだった。
家に着き、瑠璃は玄関を開けようと試みたが、扉は微動だにしなかった。既に5時を過ぎていたので、まだ家に着いていない父に連絡をするために瑠璃は携帯を取り出した。
メッセージアプリを起動した瑠璃の目に飛び込んできたのは、以下の通りだ。
『ごめん!5時に帰れなくなっちゃった!そのまま学校で時間潰しておいて!』
送られた時刻はほんの数分前だった。瑠璃はその頃には既に学校を出ていたので、携帯を逐一確認していたところで、万事休すだったのだ。
本日何度目かの絶望だった。
まるで家が自分の侵入を拒むかのように、ことごとくうまくいかない。
瑠璃は考えた。このまま家の前で父を待つか、しかし、この雨を防げるほど軒先は立派ではない。学校まで戻るにしても、学校に着く頃には父が帰ってくるだろうし何よりも全身ずぶ濡れになるのは必須。ここにいるのと対して変わりはしない。せめて傘があれば、と瑠璃に名案が浮かんだ。
そうだ、傘を貸してもらおう!
それほどの名案ではなかったが、瑠璃は隣家の金井家のインターホンを押した。返ってきたのは沈黙だった。留守らしかった。
瑠璃はまたも絶望した。俯いた瑠璃が顔をあげた先にあったのは、久遠の大きな家だった。
瑠璃は久遠家を目指し坂を駆け上がった。この前の失態で少し遠ざけていたが、全身ずぶ濡れの体はそんなことどうでもよかった。
坂を登りきり、大きな門の前に立つ。威圧感さえあった門も、この時の瑠璃は気にもならなかった。躊躇わずにインターホンを押した。
お願い、誰か出て。誰でもいいので傘を一本貸してください。
心の中で願いながら、瑠璃は猿渡の足音を待った。この前のように出てきてくれるはずだとひたすら自分に言い聞かせた。
しかし、いくら待っても足音はしなかった。猿渡は不在のようだった。
普段の自分であれば、ここでとぼとぼと帰ることを選んだかもしれない。だが、今日の瑠璃は、そうではなかった。
そこに誰もいなくても、瑠璃は誰かに向けて叫んでいた。
「すみません、隣の宮前です!傘を一本貸してくれないでしょうか!」
声が虚しく響いた。頭ではわかっていたことなのに、いざ誰もいないことがわかると胸がキリリと痛んだ。
瑠璃は諦めて家に帰ろうと、門から離れようとしたその時、門の奥の玄関がガラッと開く音がした。その足音は砂利の音を立てながら、そのままこちらに向かってくる。
瑠璃は嬉しさで震えた。雨に濡れた寒さで震えたのかもしれないが、ただただ嬉しかった。
門が開いた。
瑠璃は相手の顔も見ないうちに用件を伝えようと声を発した。
「あの、隣の宮前と言います!傘がないので、傘を一本かし...」
相手の顔が全て見えた。
出てきたのは猿渡ではなく、おそらく「久遠さん」だろう、瑠璃と同じ年くらいの少年だった。
美しい、少年だった。
真っ黒で細い、少し伸びた前髪がまばたきをするたびに長い睫毛と髪が触れる。白い肌に切り開かれた目は、伏し目がちでありながらも人形味すら感じるくらいにパチリと開いていることがわかった。その隙間から覗く暗い瞳の色でも、他人のそれとは違う。もっと純度の高い、鮮やかな黒だった。通った鼻筋、紅を引いたわけでもないのに鮮やかな唇、全てが完成された美しさの前に、瑠璃は言葉を失った。
失うどころか、それ以外何も考えられなくなるくらいに、美しい少年が目の前にいる。
綺麗過ぎて、人間味がないとすら思えた。この世のものとは思えない、どちらかといえば絵画の中にいそうな少年だった。
瑠璃は思わず出てきた美少年に見とれたが、しかし、ハッと気づいた。人の顔をまじまじと見るのは失礼だと気付いたのもあったが、何より雨が瑠璃の体を襲っていた。
「み、宮前です。その、隣の。えっと、傘を一本貸してくれないでしょうか?鍵を忘れて家に入れなくて、傘も忘れてしまって....家で雨をしのげる場所もなく....。父ももう少ししないと帰ってこないので....傘を貸していただけるととても助かるのですが....」
少年は少し扉の陰に顔を隠すように立っていた。
ほら、私がじっと見たりなんかするから、と瑠璃は心の中で自分を戒める。
「ご、ごめんなさい!人の顔じっと見るなんてすごく失礼でしたよね....。申し訳ないです。」
戒めるだけでなく、謝罪を申し出た。でなければ、傘を貸してもらえない。
頭を下げた時に顔にかかった髪から雫がポタリと地面に落ちた。随分と雨に当たったものだ。これもすべて目覚まし時計が壊れたことに始まっている。不運にはどうしてこうも不運は重なるのだろうか、と瑠璃は雫を目で追いながら思った。
頭を上げ、瑠璃は戸惑う少年に向き直った。雨に濡れる覚悟は、もうできていた。自分のような失礼な人に傘を貸してくれるほど、社会はうまくできていない。
瑠璃が口を開こうとしたその時、少年が口を開いた。
「....あの、傘を貸すのは結構なんですけど...お父さんが帰ってくるまで家の前で待つつもりなんでしょうか...?」
透き通っていながらも、輪郭のある声で少年はその美しい唇を動かしながら瑠璃に問うた。初めて聞いた少年の声は、その顔同様にまた美しかった。
動きを持った少年の顔の美しさと、発された言葉の意味を理解するのに時間を要した瑠璃は、少しの間を置いて間の抜けた声で答えた。
「まあ、父もあとちょっとで帰ってくるでしょうしから....」
多分、あと30分くらいで、と瑠璃がそう続けると少年は少し考えた後、また綺麗な顔を動かして話した。
「あの、多分それだと風邪をひいてしまうと思うので、家で雨宿りした方がいいと思うんですけど....」
語尾になるに連れてその声は小さくなりながら、少年はそう言った。
伏目がちなその目が一瞬こちらに向くたびに引き込まれ、形のいい唇が動くごとに声が響いた。
あまりにも非現実的で、理想的すぎる光景に、瑠璃は言葉の意味を考えることができずに、
「はい....」
と、溢してしまった。
いつも通り二階で本を選んでいた天音の耳に届いたのは弱い雨音だった。弱く響きつつも、そこには確かに本降りの強さを秘めていた。
猿渡は昼過ぎに行った買い物に買い忘れたものがあったらしく、もう一度隣街のスーパーに行った。家には天音一人しかいない状況だったが、客人も宅配便も来る予定はなかったため全く問題はなかった。
しばらくすると雨音が強くなってきたことに気がついた。本を探る手を止め、天音は窓に視線を運ぶ。雨は、はっきりと目で見えるくらいに降っていた。
天音は窓に近づき、そのまま街の方へ目を移した。いつも通りの街並みが雨に包まれ普段よりも色が薄い。それを補うように、ところどころに傘が咲いて世界は色付いていく。
そんなことを考えながらぼんやりと外を眺めていた天音は、その色がない存在を見つけた。この雨の中で傘を持っていない人、おそらく傘を忘れたのだろう。あれほど天気予報で言っていたのに、と天音はその人を哀れんだ。
無意識のうちに天音はその人を目で追い続けた。制服姿の少女は、時折雨を気にしながら街を駆け抜けていく。その真っ直ぐな姿から、天音はなぜか目が離せなかった。
そして少女はある家の前で足を止めた。
(あそこは確か....)
新しく越してきた親子、宮前と言っていただろうか、そこの家の前だった。少女は宮前家の娘だった。思えば、この前二階から見た少女と一致する。猿渡が名前を言っていたが、適当に話を聞いていたので、天音はそれを思い出すことができなかった。
彼女は軒先に入ると携帯を取り出し、何かを見て、落胆したようだった。しかし、しばらくすると彼女は家から飛び出していった。
(こんな雨の中どこへ行くんだろう....)
天音はそのまま彼女を追い続けた。彼女は隣の家に行きインターホンを押し、応答がなかったのだろうか、家を離れた。どうやら目的は果たせなかったらしい。
すると彼女は顔を天音の、というよりは天音の家の方に向けた。
天音は反射的に窓から離れた。自分と目が合ったように思えたからだった。
人の目に触れてはいけない。
母が天音に散々聞かせた言葉が、頭の中で反響して体を縛る。否、縛り付けているのは母だけではない。天音自身にもその自覚はある。母の話を聞き、自分自身もそれが最適解だと、そう思ってしまったのも事実だった。
頭の中で警告が鳴っているにも関わらず、天音はもう一度そっと窓から少女の姿を見ようとした。が、少女の姿はどこにもなかった。
(どこに行ったんだ....?)
そう思った瞬間、家のインターホンが鳴った。体に緊張が走り、鼓動がどんどん速くなっていくのを天音は感じた。
彼女はどうして来たのだろう、見ていたのが気づかれたのだろか、顔を見られたのだろうか、色々なことが天音の頭の中を駆け巡った。
しかし、だからと言っても天音が出なければこの家は「留守」の状態になる。留守だろわかれば、彼女は帰るということは彼女が隣の家を訪問した時にわかっている。
インターホンが鳴ってしばらくしたが、天音は音を立てずにじっとしていた。このままここにいれば、何の問題はない。これまで通り、いつも通りだと、そう天音は思っていた。
ずっと、このままで。
ここから動かなけらば、望んでいることが実現する。でも喜べない自分もいた。天音は久しぶりの葛藤の感情に顔を歪めた。
歪めたところで歪にならない自分の顔を恨んでいた天音の耳に、声が届いた。
「すみません、隣の宮前です!傘を一本貸してくれないでしょうか!」
ずっと、このままで。
天音の体は勝手に階段を下り、玄関を目指していた。人に会うなという声が、この瞬間だけ消えていた。頭にあったのはこの声に自分は応えなければならないということだけだった。
玄関を開け、門まで歩いていく。ここまで歩いたのはいつぶりだっただろうか。そんなことを思いながら、門の前にたどり着いた。
外へ、一番近い場所。
天音はいつしか手をかけたっきりのその扉を、ゆっくりと開けた。
不安も怪訝も疑問もよぎらなかった。
「あの、隣の宮前と言います!傘がないので、傘を一本かし...」
少女は天音が扉を開ききる前に話し始め、途中で切れた。切れるのと同時に彼女が見たのは天音の顔だった。
天音はその時やっと自分の行動を理解した。母と自分があれほど避けてきた人の目に今、触れている。自分がどう見えているのか、怖い上に晒されている気分がたまらなく嫌だった。
天音は恐怖と恥ずかしさから反射的に扉の陰に隠れようとした。しかし、せっかく出てきた人が隠れるというのも失礼だと思って、微妙な感じで隠れてしまった。
「み、宮前です。その、隣の。えっと、傘を一本貸してくれないでしょうか?鍵を忘れて家に入れなくて、傘も忘れてしまって....家で雨をしのげる場所もなく....。父ももう少ししないと帰ってこないので....傘を貸していただけるととても助かるのですが....。」
我に返ったのか、少女がこう言った。傘がない上に鍵もなかったために家の前で右往左往していたという。
天音の任務は彼女に傘を渡すだけという、天音が考えていたよりもずっと簡単なものだった。天音は玄関の方へ向き直ろうとした。だが、ふと考えがよぎった。
このままでいいのだろうかと思ったのだ。天音が詳しく聞けば、少女は父親が帰ってくるまで、傘一本で豪雨をしのごうとしているらしかった。雨に濡れて、髪も服も濡れている。これからもっと雨は強くなるし、日も暮れて気温だって下がる。このままじゃ、きっと少女は風邪をひくだろう。
傘を渡すだけでいい、頭の中ではわかっていた。
それでも、その選択はしたくなかった。
天音は俯く少女に向けて、
「あの、多分それだと風邪をひいてしまうと思うので、家で雨宿りした方がいいと思うんですけど....」
と言った。
上手に言えたとは思わない、不自然だったと思われるかもしれない。
それでも、たとえ奇異に見られたとしても、少女に手を差し伸べなければならない。天音は心の中でそんなことを確信していた。
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