春宵

 突然の少女の来訪を終えた家は、少女が最後に残した玄関を閉める音ともに、再び静けさを纏った。

 しかし、それとは反対にいまだに玄関に立ち尽くす天音の心臓は、大きくドクリと音を立て続けていた。久しぶりにも思えるし、でも初めて感じるような不思議な音だった。

 そこで、ふと自分が意味もなく玄関に立っていることに気づいた天音は、急いで自分の部屋に戻った。特に急ぐ必要ななかったのだが、なぜか心が逸った。

 早足で廊下を歩いていると、客間が見えた。客間にはタオルがあることを思い出し、天音は部屋の前で逸る足を止めた。襖を開け部屋に入り、天音は瑠璃が置いていったタオルを回収した。タオルはまだ少し温かいような気がした。

 タオルを洗濯カゴに入れた後、天音はようやく自分の部屋に戻った。一人で過ごすには少し広すぎる和室には、物書き用の低い机があり、そこには読みかけの本が一冊置いてある程度だ。ありえないくらいなんの音もしない部屋は、いつも天音を落ち着かせる。いつも通りの家の風景が、なぜかとても久しぶりに感じた。

 天音は先ほどまでの数十分を淡く思い出した。その時は色々考えていたはずなのに、そのほとんどを思い出すことができない。思い出せるのは、少女の温かな雰囲気だけだった。

 記憶にある内では初めて会った、家族や猿渡以外の人。会うことは許されなかったその中の一人に、天音は今日初めて会った。

 母はどう思うのだろうか。怒るだろうか、それとも、自分をもう一つ世界と遠い場所に囲うだろうか。だからと言って、自分がやったことは間違っていたとは天音には思えなかった。人間ならば、至極当然の振る舞いをしたまでだ。

 そんなことを考えていると、外で車の音が聞こえた。猿渡が帰ってきたのだ。

天音は玄関に向かった。

「おかえり」

 天音が言うと、猿渡はニコリと笑って返した。

「ただいま戻りました。いやあ、たまたま金井さんと鉢合わせまして、長話をしてこんな時間になってしまって」

 なかなか帰ってこないのはそういうことだったらしい。手に持っている袋にも、何かが一つ生地を引っ張っているだけだった。

「何か変わったことはございませんでした?」

 いつもならば、無いと呆れ気味に言う天音だったが、今日はそうでは無い。

 天音は猿渡の目を少しの間じっと見た。猿渡は不思議そうにそれを見つめ返した。

「人が来た。隣に住んでる宮前さんのお嬢さん」

「そうでしたか。留守にしていて申し訳なかったですね、用件はなんだったのでしょうか...?今度会った時にでも聞いてみます」

 靴を脱ぎながら、猿渡が微笑みを浮かべてこう言った。

 天音は台所へ歩き始めた背中に向けて言い放った。

「その必要はない」

 猿渡がピタリと足を止め、天音の方を振り返った。

「傘を持ってなかったから、雨宿りのために彼女を家にあげた。僕が応対した」

 天音の方をしっかり見つめる猿渡の表情に、不安が表れていくのが痛いくらいにわかった。微笑みがよく似合う顔が、見る見るうちに切なさを携えていく。

 わなわなと震える口をなんとか駆使して猿渡は言葉を紡いだ。

「ど、どうしてそのようなことを...?」

「彼女が訪ねて来たんだ、傘を貸して欲しいって。でも、父親が帰ってくるまでこの雨の中耐えきれるとは思えなかったから、僕が提案したんだ。父親が帰ってくるまで雨宿りをしてみてはどうかって」

 動揺する猿渡と対照的に天音は冷静に事情を話した。その間も猿渡から目をそらすようなことはしなかった。おかげで、彼が何をどんな風に感じ取ったのか、大体はわかってしまった。

 僕が話し終わると、猿渡は少ししてから天音から目線を外した。

「そうですか...」

小さくそう呟くと、完全に視線を地面に落とした。

 猿渡がどう思っても、彼には天音を否定する権利は与えらえていない。天音を否定して良いのは母親だけである。あくまでも猿渡は、使用人に過ぎないのだ。

 天音にとっては父親のような存在ではある。天音自身も深くそう思っている。だが、二人の間にははっきりと線が引かれているのだ。他人ではないけれど、身内でもない。

 猿渡は一度深く呼吸した後、いつもの微笑みを顔に貼り付けた。

「とりあえず、柑菜さんには黙っておきます。それで....瑠璃さんの様子はどうでしたか?」

微笑みながらも、顔の奥にはそんな優しい感情ではなく、もっとずっと暗い感情が見えた。

「彼女は大丈夫だよ。母さんが思うような人じゃないと思う。最初は驚いてたけど、それ以外は平気だった」

微笑に安堵の色が宿った。だが、天音が彼と母が望まない状況にあるのには変わらない。

 ふと玄関の方に視線を移した猿渡が、傘がないことに気づいた。天音に与えられたあの薄萌葱の傘は、数えるほどしか使われておらず、傘立てにあることが久遠家にとっての平和の象徴なのである。

「傘も貸した。持ってなかったんだ、しょうがないだろ?」

「え、ええ...そうですね....」

 いとも簡単に壊れた平和の象徴に、猿渡はもう微笑を保つ余裕はなかったようだ。顔にあるのはもう不安の色だけである。

 そんな顔をずっと見続けていると、天音は段々と申し訳なくなってきた。自分からしたことだし、後悔なんてしていない。それでも、天音は猿渡のこんな顔をさせるつもりは微塵もなかったのだ。

 青い顔をし続ける猿渡に、天音はゆっくりと告げる。

「....ごめんなさい。勝手に色々やったことは、申し訳ないと思ってる。でも、だからと言って、放っておくこともできなかったんだ。....母さんには自分から言うよ...どうなるかわからないけど。全部自分でやったことだし、責任だってとる。だから猿渡がそんな顔しなくていい」

 言いながら、虚しくなった。

 何か悪さをしたわけでもない、誰かを傷つけたわけでもない。それなのに、こんなに罪を感じてしまうことが虚しくてならない。

「悪かったのは、全部僕だ」

 それは、ずっと変わらない。

 猿渡の目に悲しみが宿るのがわかった。

 人というのは、どうして守られたにも関わらず、喜ばずに悲しい顔をするのだろうか。笑って欲しくてそうしたのに、どうして悲しませてしまうのだろう。

 猿渡は堪えるように目を閉じ深く息を吸った。開くと同時に、いつもの微笑みに戻った。

「いえ、天音さんは何もおかしいことはしてないんですよ。人として、当たり前のことをしただけです。それだけ、それだけなんですよ」

 そう言って、猿渡は天音の頭を優しく撫でた。

 突然の出来事に、天音は動揺したが次第にその温もりが好きだったことを思い出した。

 猿渡は小さな天音が何かできるたびによくその頭を撫でていた。細く大きな手に、小さかった天音の頭は簡単に覆われて、温もりに包まれていた。天音は日々の中であまり感じることがなかったその温もりが、大好きだった。

 だが、天音が成長するにつれて、あるいは自分の境遇を理解するにつれて、猿渡が天音の頭を撫でることは減っていった。天音自身もいつまでも子供扱いされるのは嫌だったし、猿渡も空気を読む男だったため、その習慣がなくなったのは自然なことだった。

 温もりを感じながら天音は考えていた。今になって猿渡が自分の頭を撫でているということは、自分は何かできたのだろうか。頭を撫でる猿渡の顔は、涙を流しそうな顔をしている。哀れにも思えるのだろうか、それとも、今後の母からの対応を想像した情けによるものなのだろうか。天音には答えが出なかった。

 天音の頭からそっと手を離すと、猿渡は自然な笑顔を浮かべて、

「さて、私は夕飯の準備をしますね。思い出話は、また夕飯の時にしましょう」

と言って見せた。いつも通りの猿渡の顔だ。

 天音もつられて表情を和らげた。

「うん。僕も話したいことがいっぱいあるんだ。聞いてくれる?」

 猿渡はもちろんです、と頷いた。


 薄萌葱色の傘をさし家の前で待っていると、5分ほどで父は帰ってきた。

「ごめん!まさかこんなに遅くなると思ってなくて、あ!鍵ね、今開けるから!」

 優は慌てて鍵を開けた。瑠璃はようやく安堵感で満たされた。激動の1日がようやく終わったのだ。

「私、今日は先にお風呂入っちゃうから、ご飯後でいい?もう制服も髪もビショビショでさ」

「わかった。じゃあ、父さんお風呂用意してくるから、先に着替えてきな」

 瑠璃ははーいと返事をすると、自分の部屋へ向かった。

 部屋は、おかしいくらいにいつも通りで、どこか調子を狂わせられる。ただ不自然なのは、止まった時計だけである。これが瑠璃を1日翻弄したのだ。

 瑠璃は指先で目覚まし時計を小突いて、

「君のせいで散々な1日だったよ」

と呟いて、笑みがこぼれた。

 確かに、制服も重みを増すほどに濡れたし、不安にもなった。だが、思いがけない出会いもあった。不思議な、美しい少年と出会えた。

 胸に踊るふわふわした感情を味わいながら、瑠璃はブレザーを脱いだ。


「そういえば、久遠さんの家どうだった?」

 夕食の生姜焼きを食べながら、優が瑠璃に聞いた。

「広かった?」

「うん。それに、びっくりするくらい綺麗だった」

 家そのものも、飾られた絵画たちも全てが美術品だった。あの家自体が美術館のような、そんな感じだった。

 優は米を咀嚼しながら、ふーんと言った。

「あ、じゃあ久遠さんはどんな人だった?会ったんだろ?」

「どうって...」 

 瑠璃は久遠天音という少年を思い描いた。どんな人か、と言われると少し考えてしまう。 

 信じられないくらい美しくて、大人びていて、口下手で。

 一言で表すのは、少し難しかった。

 でも、一つ言えるのは、

「優しい人だったよ。私は傘だけでいいって言ったんだけど、雨宿りまでさせてくれて、タオルも貸してくれて!それにほら、私、傘持ってたでしょ?それも全部天音くんが貸してくれたんだ!」

 彼は優しかった。瑠璃に残ったのは、彼の顔の美しさではない。彼の優しさ抜きに、今日という日は語れないのだ。

「天音くんって....久遠さんはおいくつなんだ?」

「私と同い年なの!せっかくだから、敬語はやめようって話になってね?それから....」

 その後も、瑠璃の雨宿り中の話で話題は尽きなかった。優は優しく笑いながら、娘にできた新しい友達の話を聞いていた。今度、傘を返すのと今日のお礼をするために二人で行こうと、約束もした。

 雨は未だ止むことははない。だが、窓から入ってくる空気は瑠璃の肌を優しく撫でて包み込んだ。

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