来訪

 何のために目覚めているのかわからない。毎日眠りから目が覚めるとそう思う。きっと今日も昨日と同じように過ごすのに、神は天音に起きるように命令する。

 母の言いつけによって自分はこの家から出ることも、他人と会うこともできない。この人生を、神は必要だと思っているのだろうか。いっそ手放してくれた方が、と毎朝思ってしまう。

「天音さん、お目覚めでしょうか。」

 襖を開ける音とともに、初老の身長の高い男性が入ってきた。彼は柑菜が天音に付けた世話人の猿渡宗光で、この家のことをその細い体でやってくれている。いわば天音の親代わりのような存在である。

 普通の親がどんなものかよく知らないけれど、多分親とはこのような人のことだろうと、天音は思っていた。

「昨夜はよく眠れましたか?」

「うん。いつも通り、夢すら見なかった」

 猿渡は少し苦しそうな顔をした。彼は毎日残念がるのだが、天音にとっては退屈こそが当たり前で、日常だった。何事もなく過ごせたのだから、むしろ喜ばしいことなのに、と天音は毎日思う。

 猿渡がこうして毎朝自分のもとに来るのは傑作の状態を確認するためであると天音は考えていた。怪我をしていないか、体調は悪くないか、顔に傷がついていないかなどを確認する。柑菜が猿渡に託した、一番大事な仕事の一つだった。

「今日は天気がいいですよ。一日中晴れるそうです。」

 猿渡はただ状態を確認するだけではなく、毎朝何かしら会話をする。今日のように天気の話だったり、近所の人の話だったり、彼が好きな大工仕事の話など十何年間、毎朝話していてもその話題が尽きることがなかった。天音としても彼は話すのが上手いから、同じような話題があっても飽きることがなかった。

 自分とは違って、明るく人付き合いが好きな猿渡を自分がここに縛り付けている。天音はいつもそう考えていたが、それを言葉にすることはなかった。言ってしまえば、猿渡が悲しい顔をすると思ったから。天音は猿渡のそんな顔を見たくはなかった。

 天音が自分の周りの世話をする猿渡を見ながらそんなことを考えていると、猿渡がふと何かを思い出した。

「ああ、そう言えばこの街に新しく住人が増えたんですよ。東京から来た親子二人だそうで」

「この街にわざわざ東京から...」

 天音は適当に相槌を打ちながらも興味なんてなかった。どうせ関わるはずがないことを知っているからだ。猿渡は関わるかもしれないが、天音にとってはどうでもいい話だった。そんな天音の心の内を悟ってか、一瞬猿渡は寂しそうな顔をしたが、すぐにまた微笑んで冗談を言った。

「難しいかもしれませんが、お相手が困っていたら助けてあげるくらいのことはしてあげてください。それくらいなら許されるでしょうし、家同士の距離は離れていますが、私たちはお隣様ですからね。」


 優の願いがこんなに早く成就するとは。瑠璃も、当の本人である優もそう思った。

「...お隣さんだったとは思ってなかったかな...」

「父さんもだよ...金井さんに聞いてびっくりしたけど、実物見るとまたびっくりするな...。」

 金井さんとは家に近い方の瑠璃たちのお隣さんである。金井さんの家に引越しの挨拶にいった際、あそこのお家なら向こうの家にも引越しの挨拶をしてみてはと教えてもらった家は、例のあの大きい古い家だった。

 瑠璃たちの家も他の家とは少し離れているが、その家はまるで人目を避けるようにして離れ、坂を登りきったところに建っていた。家の周りは塀で囲まれ、家との距離からして、広い庭があることが窺えた。家自体も二階建てのようで、いかにもな日本家屋の最上級といった感じだ。これほどにも大きく美しい家でありながらも、少し高い塀に加え、一階部分を隠すように植えられた木々によって、中にいる人間の姿が見えてこないのが異質だった。瑠璃たちが目の前に立つ木造の古い門も、他者の侵入を拒んでいるようにしか見えない。

 ここに住んでいる人なんて私たちがお会いしていいのだろうか、と瑠璃は思った。単なるおこがましさだけでなく、家が放つ異様な気配に恐怖すら覚えた。

「とりあえず、挨拶はしよう。どんなに厳しい人であっても、挨拶なしじゃ失礼だ。」

 固まる瑠璃に声をかけながら、優は恐る恐るインターホンを鳴らした。インターホンの上の古い表札には「久遠」と書かれていた。

 少しすると家の玄関がガラッと開く音がした。どうやら留守ではなかったらしく、こちらに向かってくる足音がして、瑠璃と優は思わず背筋を伸ばしてしまった。

 門が開き出てきたのは、意外にも白髪が印象的な、微笑みを浮かべる優しげな男性だった。

「こんにちは。隣に越してきた宮前という者です。ご挨拶に伺いにきました。」

 さっきまで緊張していた優が嘘のように、丁寧に挨拶を交わしたので、瑠璃は大人というもののすごさを感じた。

 男性は笑顔で頷くと、

「噂は聞いていますよ。東京から来られたそうで...。ああ、私は猿渡と申します。この家の世話人といったところです。」

と、にっこりと笑って答えた。その笑顔の柔らかさに、瑠璃も自然と体の緊張がほぐれた。暖かさを感じる人だと、瑠璃は思った。

「仕事の都合でこっちに越してきたんです。こっちが娘の瑠璃です。」

 父の紹介を受け瑠璃も猿渡に挨拶をした。

「えっと、宮前瑠璃です。4月から高校生になります。ど、どうぞよろしくお願いします!」

 まだほぐれきれなかった緊張が声に表れていたのだろうか、猿渡さんは少し驚いた顔をした後、クスッと笑った。

「そんなに緊張しなくていいですよ。どうも家がこのような見た目ですのでよく勘違いされてしまうのですが、堅苦しい人間ではないので安心してください。」

 瑠璃も優も、この言葉を聞いてやっと心の底からほっとした。猿渡という人はとても見た目通りの優しい人であるらしかった。

 緊張がほぐれたことで周りが見えて、それにしても大きい家だと、瑠璃は思った。大きいだけでなく歴史も感じるけれど、古臭いといったネガティブな印象は一切持たない。この門1つとっても、細かい部分に手がかかっていることが確認できる。隣で父と猿渡が大人同士の会話を始めたので、瑠璃は目の前の門でも見る事にした。

 そして、ある事に気付いたのだ。気付いた、というと語弊が生まれてしまうが、改めて気付いたのである。

 表札の『久遠』の文字。

 瑠璃は思わず声に出して読んでしまった。

「久遠...」

 瑠璃が気付いたのは猿渡ではないことに、だった。

 瑠璃の漏れた一言に、優と談笑していた猿渡が一瞬固まった。瑠璃はハッとして、猿渡の方を向いた。

 猿渡は瑠璃の方を向いて、ぎこちなく笑顔を作った。

 それを見てやっと瑠璃は自分がしたことの意味を理解した。

「ごめんなさい!私、そういうつもりじゃ全然なくて....」

 人の家庭の問題に首をつっこむのも、むやみに聞くのもされたくないのを自分が一番わかっているくせに最低なことをしてしまった。一番触れて欲しくない場所だとわかっていたはずなのに。

「瑠璃さん」

と、猿渡が瑠璃の眼をじっと見つめた。瑠璃も彼の眼を見つめたが、そこに先ほどまでの柔らかさがなかったのを見逃しはしなかった。

「大丈夫ですよ。多分、瑠璃さんが想像しているようなものではないので。」

と意外にもクスッと笑って見せた猿渡が、家の方を指しながら続ける。

「先ほど私は使用人だと申したでしょう?私はこの久遠の家に仕えるものなのですよ。だから、私と表札の苗字が違くてもおかしくはないのです。」

 優が「瑠璃の勘違いだったな」と笑った。それを見た猿渡も笑っていた。勘違いだと諭された瑠璃は恥ずかしさで今すぐここから逃げ出したかった。

 ひとしきり笑った優が、さてと切り返す。

「そろそろ戻りますね。改めてこれからよろしくお願いします。」

と頭を下げた。瑠璃も続けて頭を下げる。猿渡も軽く礼をして返し、別れの挨拶をしてその場を去った。

 

 瑠璃は長い坂を下りながら、ふと考えた。

 考えた、というより違和感を覚えた。

 猿渡が自らを紹介するときに、『久遠』の名が一切出てこなかったのだ。会話の中に出てきてもおかしくない単語なのに、それが出てこなかった。まるでひた隠すような口ぶりだったような気がしてならなかった。

 瑠璃は少し気になって、優にこのことを告げた。すると、

「確かに、猿渡さんと喋ってた時も久遠って名前も、一緒に住んでる人の話題も出てこなかったけど...考えすぎじゃないのか?不自然ではなかったし」

 確かに、偶然だと言えばそれまでだが、瑠璃は納得できなかった。自分が久遠と言った後、明らかに彼の様子が不自然だったのは確かだった。

「やっぱり私、余計なこと言っちゃったかな....」

 あの時自分が黙っていれば、彼にあんな顔をさせなかったのだ。あんなにも優しそうな人の笑顔を奪った。瑠璃は後悔で胸がいっぱいになった。

 俯く瑠璃に、優は、

「言いたくないことの一つや二つ、人間なんだからあるに決まってる。瑠璃だってそうだろ?瑠璃が言ったことが猿渡さんのがそうだったかもしれないけど、彼は何も言ってないし、父さんたちだって何も聞いてない。だから、大丈夫なんじゃないかな。今度会ったときに、猿渡さんが笑ってなかったら謝ればいいし、笑ってくれたら、普通に接すればいいんだよ」

だから気にするな、と優は言った。それは同時に、これ以上他所の事情に介入するな、という意味でもあるのだと瑠璃は知っている。瑠璃は前を向き、少し先を歩く優の背を追いかけた。

 もうすぐ家に着く。家に帰れば、今日の夕食の準備をしなくては、夕食は何がいいだろうか。瑠璃の頭の中は、すぐに夕食の献立の候補でいっぱいになった。


 家のインターホンが鳴ったとき、天音は二階の書庫にいた。

 一階にいた猿渡が玄関へ向かう足音がした。何か宅配便が届いたか、それとも猿渡が通販でまた何かを頼んでいたのだろうか。だとしたらいつもは配送業者の人が一言声をかけるのだが、今日は違う担当の人なのだろう。どうであっても天音には関係がないことだったので、そのまま棚の本の背表紙をなぞっていた。

 この家に書庫があって良かったと心から天音は常日頃思う。これがなければ寿命より先に退屈で死んでいただろうし、知識もないままに死ぬところであった。

 この書庫には古い本が多い。なんでも、天音の祖父と祖母が読書が好きだったことに加え、収集癖もあったらしい、棚に収まらないほどの本を集めていた。中には猿渡が最近買った本もあるが、ここにあるのは大抵何十年も前の本である。

 毎日本を選んでは読みふける、というかそれしかできない。外に出ることはできないし、何か創造することもできない。天音は改めて自分の顔を呪った。

 ふとみた窓の向こうは清々しい快晴。こんな日に外に出られたらどれだけ気持ちいいのだろうか、天音には想像することしかできなかった。

 天音にとっては窓から見える景色が世界の全てだった。こんな人生の、ほんの少しの希望。きっと出ることはできないけれど、憧れるのは自由だった。書庫の窓から世界を見渡す。この家は坂の上にあるので、二階からは街全体が見渡せた。豆粒ほどに見える人の姿はどれも楽しそうで、活気にあふれている。この街は小さいけれど、静かで良い街だと天音は思っていた。猿渡がいつも楽しそうなのが、その証拠である。

 二階の窓からは家の庭も、家の門も全て見える。すると、いつもは誰もいない門に、今日は猿渡が立っていた。門の向こうの、二人の人の姿とともに。

(誰か訪ねてきたのか....?)

 少し鼓動が早くなり、天音は思わず身を引いた。誰だろうか、猿渡が追い返さないなら、母の関係者ではないのか?

 天音はそっともう一度窓の方に近づいた。二人組の一人は40代くらいだろうか、穏やかそうな男性、隣には天音と同世代くらいの少女がいた。この瞬間に全て理解した。

(猿渡が言っていた隣に越してきた親子か)

 天音は気づかれないように、そっと門の方を見つめ続ける。久しぶりに猿渡以外の人の姿を見るような気がしたからだ。父親の方が猿渡と何かを笑いあっている。隣の少女は、珍しそうに家を見ていた。その表情を見ていると、天音は無性に自分が嫌になった。歳は同じくらいなのにあんな表情を作ることができない自分に、絶望するしかなかった。

(戻ろう。ここにいてもどうにもなりはしない)

 天音は窓を離れ、自室に戻った。なんでもない親子を見るのが、ただひたすらに辛かった。

 自室に戻ってしばらくすると猿渡が戻ってきた。

「戻っておられましたか。越してきた宮前さんが挨拶に来てくれたんです、とても人当たりの良い方達でしたよ」

彼はにっこりと笑って伝えてくれた。いつもよりも、顔のシワが深く刻まれていた。

「二階から少しだけ見えたよ。僕と同世代くらいの娘さんだったね」

猿渡は少し驚いた顔をした後、嬉しそうに笑いながら続けた。

「ええ、娘の瑠璃さんは天音さんと同い年のようです。とても丁寧で可愛らしいお嬢さんで.... 。謝らせてしまったのが、申し訳ないです」

 猿渡が少し申し訳なさそうに笑った。天音が何かあったのかと聞くと、猿渡は強く否定し、

「表札と私の名が一致しないことに気づいて、私が一瞬....少しだけ顔が緊張していたのでしょうね。それに気づいて、謝ってくれたんです。おそらく、踏み込んでほしくないところに入ってしまったのだと思われたのでしょう」

 天音は黙って猿渡の話を聞いていた。猿渡はそのまま続ける。

「彼女も片親のようですし、家族の事情というものに敏感なんでしょうね。大抵の人なら、あそこで咄嗟に謝りはしないですよ」

 猿渡が申し訳なく思うのも、彼女が謝ったのも原因はおそらく自分だと、天音はわかった。猿渡は自分のために久遠天音の名を出さなかったはずだと知っている。もしかしたら久遠の名すら出さなかったかもしれない。天音を守るために、出さなかったのだと思う。

 謝るべきなのは彼女でもなければ、猿渡でもない。自分自身なのだと、天音は自責の念で胸がいっぱいになった。

 

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