船出

 思い返せば良い街だった。家の周りにスーパーもコンビニもあって普段の生活は不自由なく暮らせた。交通網も充実して都外の旅行にも行きやすかったし、家族三人で暮らすには十分だった。途中で二人になってしまったけれど、ずっとこの街で過ごしていくんだとなんとなく、そう思っていた。でもそれは今日で終わりだ。

 東京で15年過ごした宮前瑠璃は父の仕事の関係で自然豊かで穏やかな郊外の街に越すことになったのである。まだ記憶に新しい中学校の卒業式を五日前に置き去りに、今日、彼女たちはこの街を出ていく。

「瑠璃、そろそろ行こうか。」

自分が育った街を見つめる瑠璃に父の優が声をかけた。瑠璃はそれに笑顔で頷くと、父は車の運転席のドアを開ける。瑠璃は後部座席に腰掛け、車窓からもう一度街を見つめた。自分と、亡き母が生まれ育った街、15年分の家族の思い出が詰まった街がそこにはあった。

「本当はずっといたかったな...」

 瑠璃の口から溢れた呟きに、バックミラー越しの優はひどく申し訳なさそうにした。瑠璃はそんな父の顔を見て慌てて父は悪くない、と伝えた。

 父が罪悪感を感じるなんてお門違いなのだ。悪いのはむしろ自分の方だと、瑠璃は数ヶ月前のことを思い出しながらそんなことを考えた。

 脳内で声が反響した。実際の声も、聞こえなかった声も。その全部が少し前の自分と、今の自分に刃を突き立てて抜けない。多分この痛みが消えるのは、まだもう少し、あるいはもっと先なのだと瑠璃は思っている。消えないことだけはないと信じたかった。

 脳内の反響が止んだ後、瑠璃は優にミラー越しで告げた。家族が過ごした大切な街を離れたくない気持ちは嘘ではないけど、この街を離れる選択が正しいのだと。

「....ごめんな、瑠璃。」

「ううん、この街じゃないところに行けるなら、それで良いの。....お父さんは、何も悪くないんだよ」

瑠璃がもう一度そう言うと優は一瞬悲しい目をして、車を出した。街に別れを告げる。今まで過ごせて良かった。楽しい思い出もたくさんあった。街のことは好きだった。でももう、来ることはないと思う。来ることは、できないと瑠璃は思った。


 目的地に着くまでの車内では父と娘の他愛のない会話が弾んだ。新しい街の話、天気の話、昼ごはんの話などなんてことのない会話が浮かんでは消えていった。瑠璃は、その時間が何よりも愛しかった。

 車がいよいよ街を出かけていたとき、車は桜並木の下を潜っていった。 

 親子三人で、母と一緒によく花見に行った桜並木には、まだ花は咲いていないけれど蕾が膨らんでいることが車内からでも確認できた。

 優がそれに気づいて、

「まだまだ春は遠いな。」

と、少し残念がったが、瑠璃はそうは思わなかった。ついこの前までは蕾は見えなかったのに、こんなにも多くの蕾が出てきたのだ。冬が終わって春が来ることを告げている。

「あ、そうだお父さん。向こうでもお花見しようよ、あったかくなったらさ」

「うん、そうだね。必ず行こう」

 ふと開けた窓からは、まだ少し冷たい風を感じた。だが確かに春の気配を含んだ風に、瑠璃は痛みなど微塵も感じなかった。

 春が待ち遠しい。新生活も新学期も全てが今の瑠璃には羨ましかった。早くその暖かい風で呪いのような冬の寒さを夢であったと思わせて欲しい。新しい生活も新しい学校も瑠璃にとっては不安なことなど1つもなかった。

 私の人生はもう一度始まる。今度は、上手くやってみせると、固く誓いながら、瑠璃は桜並木を抜けていった。

 

 気づけば眠りについていた瑠璃が目覚めた時には、車窓からの景色は一変していた。既に都会の色は消え、山がかなり印象的な景色になっていて、所謂田舎というやつのそれになっていた。

 しかし瑠璃はその景色に対して嫌悪は示さなかった。むしろ都会では見られない景色だったから、それがとても新鮮だった。

 優が言うには、新しく住む街は山もあれば少し出れば海もある街らしい。新しく通う高校は海の方に近いらしく、街周辺に住む子は全員そこに行くのだと言う。隣の町には大きな駅があって、そこは瑠璃たちが住む街よりも発展しているらしかった。

「良いところそうだね。新しい街」

 瑠璃の呟きに優は少し嬉しそうに微笑んで、

「そうだな」

と、短く答えた。

 瑠璃は新しい街に着くのが一層楽しみになった。気持ちが逸って、自然と顔に笑みが浮かんだ。

 瑠璃が興奮を抑えきれずにそわそわしていることに気づいた優が、そうだ、と何かを思い出した。

「小さい街だけど、近所では結構有名な古いお家があるんだってさ。歴史的な価値もあるっていう家なんだって。一度見てみたいもんだね」

「見るっていっても、人が住んでるお家なんでしょ?勝手に見に行くのはダメだよ」

瑠璃の忠告に優はまあまあ、と笑ってさらに続けた。

「いつかその日が来れば良いなってことだよ。確か、二人で住んでるらしくてね、ちょっと前まではもう少し多かったみたいだけど」

 瑠璃はハッとした。その状況が少し自分と似ていると思って、胸がキュッと痛んだ。もちろん、実際はそうではないかもしれないのはわかっているけれど、ないとも言い切れない。

 瑠璃はダメだ、とぎゅっと目を閉じてゆっくり目を開けた。その家がどんな理由を抱えていても、自分が踏み込んでいい問題ではない。気にすることが、最大の迷惑である。

「お、見えてきたぞ、瑠璃。あれが新しく住む家だ」

 考え事をしていた内に、どうやら目的地に着いたらしかった。優の目線の先を辿ると小さな、だけど新しい家が少し遠くに見えた。人家から少し離れたところに建っている、古民家をリフォームした新しい家。

 ここから新しく毎日が始まるのだと、瑠璃は実感した。それが嬉しくて、でも少し寂しさを感じた気がして、瑠璃は涙が溢れそうになった。でも、そんなことしないと心に決めたのだ。ぐっと涙を飲み込み、もう一度、まっすぐ未来を見据えた。

 家の前で車が止まった。

 新しい家、新しい街、新しい生活。

 いつもだったら怖いとすら思える新しさへの不安も、この時の瑠璃は一切感じなかった。

 ああ、今日は人生で一番美しい日だ。

 心の中でそう唱えて、瑠璃は真っ白な家に歩き出した。

 

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