瑠璃色の額縁
一日二十日
傑作
ある小さな街に美しい娘が生まれた。
明治から続く名家に生まれたその子は蝶よ花よと育てられ、愛情を注がれていた。子の名は久遠柑菜といった。両親にとっては焦がれ続けた子供の柑菜が愛おしくて、愛らしくて仕方なかった。
しかし、周りの人間にとっては柑菜が持っていたのは子供の愛らしさではなかった。一人の人間、もしくは1つの芸術品として美しかったのだ。両親以外の大人は口を揃えてこう言った。
「柑菜は美しい」と。
「あなたは美しい」「柑菜は綺麗だ」と、周りの大人たちは日頃から柑菜に向けて賞賛の言葉を浴びせた。当然、そんな生活を送っていた柑菜は自分が美しいことを自覚していた。それと同時に自分と同様に美しいものに強く惹かれるようになっていった。植物や自然現象、景色など身の回りのものに対して次々と美を見出した。それからしばらくすると柑菜は、溢れ出る情熱を親の趣味だった絵画を通して表し始める。画家・久遠柑菜の誕生の瞬間であった。
柑菜は自分が見出した美しさを逃さぬように世界を描きとった。ただ絵を描くのが楽しくて、上手く描けるようになるのが嬉しかった。しかし、彼女の作品が発表されるようになると世界はたちまち色を変えた。柑菜にとっては美しいままに描いているだけだった絵を世界は賞賛し、彼女を「天才」と称した。幼少の彼女にしたように「美しい」、と。勿論、技術が優れていたのは言うまでもないのだが、彼女の作品には人を惹きつける特別な魅力があったことが評価された最大の理由である。彼女の作品には一度見たら惚れ込んでしまう魅力があるらしく、ある評論家は「彼女の作品は人を狂わせてしまう。出会ったが最後、忘れることができない麻薬のようだ」と評した。柑菜の描いた作品は広く評価され、瞬く間に彼女の名前は世界に轟くことになった。世界はその美しさに酔いしれた。だが、その熱に溺れていたのは柑菜自身もだった。
美しい女性となった柑菜は恋に落ちた。その相手は柑菜がこの人生の中で最も美しいと思った人だったという。幸運にも彼女はその人と結ばれ、一人の子供に恵まれた。美しい世界に溺れかけていた画家は、やっと普通の世界を手に入れることができ、幸せな時間を過ごしていたという。この時期に描いた作品は柑菜の作品群の中でも異彩を放つという。柑菜はようやく普通の幸せを手に入れることができた。美しさを必要以上に賞賛されることもなくただの久遠柑菜を見つけたのだ。幸せな日々を過ごす中、無事に男の子がこの世に誕生したという。
しかし、この男児が柑菜を飲み込んでしまった。美しく眩しい、深い世界へ。生まれた男児が赤子にも関わらずとても美しかった。幼少の自分よりも、ずっと。自分よりも遥かに美しいそれを芸術家の柑菜が見逃すことはできるはずもなかったのだ。
私がこの世界に産んだ最高傑作。
柑菜はそう思った。この世界の何よりも美しいもの。
柑菜はその子に「天音」と名付け、自分史上最高の傑作を愛した。何枚もその姿をキャンバスに写し取った。取り憑かれたように何枚も、何十枚も。
そんな生活を続けていたある日、家に柑菜の仕事仲間がやってきた。公私ともに柑菜と親しかった彼らは仕事と出産の報告も兼ねて家に招かれたのだという。柑菜は生まれた傑作を紹介した。仲間の息子に会えるのを楽しみに待っていた彼らだったが、連れてこられた子供の顔を見て彼らは絶句した。
その子供の顔は赤子でありながらも柑菜の美しさを引き継ぎ、柑菜以上に美しかった。間違いなく彼女の最高傑作が完成したと、彼らは一瞬で確信した。同時に、恐怖すら感じた。今後この子が平凡な世界で生きていけるはずがない、と。社会からはこの美しさを排斥したがる人間が出てくることもあるだろうし、まず第一に溶け込めるはずもない。加えて、芸術を愛する人にとってはこの子の美しさを独占したい人間が出てくるはず。すぐさま彼らは柑菜に警告した。
「この子は美しすぎる。あまり人目に触れさせるべきではない。」と。
しかし柑菜はそれを断った。それもそうである、芸術家に己の最高傑作を発表するなというのは、画家に対する侮辱だ。彼女は天音を見せびらかした。一般には赤子の美しさなどわからないだろうから、芸術関係者にのみ限って公開した。これが全ての悲劇の始まりだった。
天音が2歳になった頃だった。いつものように家には柑菜の仕事関係者が来て、美しい親子を鑑賞していた。何度かきたことがある人もいればこれが初めての人もいた。少し異様ではあったが、穏やかな時間だったと思う。久遠の家はさながら美術館になっていた。柑菜とその作品たち、そして天音という生きる傑作。全ての歯車が噛み合っていた。しかし、この日だけは違ったのである。
この日連れてこられた中に、ある一人の男がいた。それなりに長く芸術に触れてきた男で、柑菜の芸術というものを深く愛していた。仲間のツテでようやくこの日、柑菜の息子に会う機会を得られた彼は、天音を観るのを楽しみにしていた。
興奮と緊張を抑えながら、久遠の家に入った。柑菜が出迎え、客間で待っているように言われた彼はその通りにした。
古いながらも洗練されている部屋で、ここにいるだけでも立派な芸術鑑賞だと彼は思ったという。客間まで歩いてきた廊下には柑菜の作品が飾られていたし、このまま帰っても満足だといっても過言ではなかった。
しばらくすると足音が聞こえた。男は柑菜が戻って来たのかと思って襖の方を見た。しかし、襖が開き現れたのは柑菜ではなく、小さな男の子だった。
男は驚愕した。柑菜を始めとした芸術家たちが天音を絶賛した理由もよくわかった。長く芸術に触れてきた男だったが、その全てを足してもこの美しさにはかなわないと、そう思ったという。自分自身の経験など無駄だったと、この作品さえあればいいとすら思った。彼は傑作に手を伸ばした。伸ばした手が狼狽える傑作に触れた時既に、理性などはどこかに消え去っていた。
気づけば彼は走り出していた。その手に傑作を抱えて。客間を出て廊下に出ると、あれほど美しいと思っていた柑菜の作品たちが今では目に入ることさえない。これらよりも優れた作品が今、自分の腕の中にある。そう思うと、柑菜のこれまでの作品なんてただのキャンバスだった。男は廊下を過ぎると、まっすぐ玄関へ向かい、そのまま飛び出していった。
突如家に響き渡った普通ではない足音に柑菜は気がついた。何事かと音のした廊下を確認しに行くと、客間の襖が外されていた。待っていろと言った客人もいなかった。柑菜が立ち尽くす中、同じく家中を確認していた使用人がこう告げた。
「天音さんがいない」
心臓が握りつぶされる感覚を覚えた。柑菜は急いで玄関へ向かった。玄関と門は乱暴に開け放たれ、家の前にあった客人の車が無い。何が起こったのかを柑菜はようやく理解した。
「盗まれた」
私の傑作が盗まれた。柑菜は走り出した。力の限り走った。車で連れて行かれたなら無駄だったにも関わらず、柑菜は走ることしかできなかった。生憎、家の前の道は下り坂になっており、勢いがついた走りが柑菜を転ばせた。いつも手をかけている髪もこだわっている服もボロボロになったが、柑菜にとってはどうでもよかった。柑菜はまた走り出そうとしたが、うまく足が動かない。
「柑菜さん!」
と後ろから声が聞こえた。使用人が車に乗って駆けつけてくれた。柑菜は使用人と言葉を交わさなかったが、車に乗れという合図を受け取り、力を振り絞り立ち上がった。
使用人はできる限り車を飛ばした。窃盗犯が向かったであろう隣町の駅の方へ狙いを定め走った。遠くでパトカーのサイレンが聞こえ、柑菜が走り出した後に使用人が警察を呼んでくれていたらしいことを柑菜は悟った。
車で何分か走り続けていると、使用人の携帯が鳴った。使用人がそれに出ると、柑菜に代わるように携帯を渡してきた。電話の相手は警察だった。
「犯人は捕まりました。息子さんも無事です。」
連絡が早かったことと地域住民の怪しい車の証言をもとに警官たちがうまく連携できたことで隣町に入る手前で確保することができたらしい。使用人はほっと息をついて、発見された場所へ向けて車を出した。
無事に天音は家に帰ってきた。幸いにも顔も体も傷一つなく家に帰ってくることができ、帰ってきた後の天音はいつも通り遊んで、ご飯を食べ、眠った。
傷を負ったのは天音ではなく、柑菜の方だった。
柑菜の心は壊れた。傑作を失うところだったと、自分を責めた。私が目を離したから、天音に客間に入らないように言わなかったから、あの時警告を聞かなかったから、天音を人の目に触れさせてしまったから。
柑菜はある決断をした。家に人を招く生活は二度としないと。この場所には誰も近寄らせない、天音には近寄らせない。そのためにはここにアトリエを構えてはいけない、そう思ったので、柑菜は東京に新しくアトリエを持つことにした。実際に仕事上東京にいる方が便利なこともあったので、柑菜にとっては都合が良かった。自分といることで天音は不幸になる、そう感じた柑菜は古くから久遠家に仕える使用人に天音を託した。そしてこう告げた。
「天音を人の目に触れさせないで。家の外に出さないで。」
使用人は頷くしかなかった。あの警告が実際に起こった以上、どうなるかわからなかったからだ。あの警告が、本物になってしまったから。躊躇いつつも、それ以上の策を思いつくことはなかった。
柑菜は家を、街を出て行った。この家に帰ってくるのは年に数回、天音をモデルに絵を描くために戻ってくる程度になった。それ以外は使用人と天音だけで広い家で毎日を過ごしていた。
傑作と言われ、将来を期待された少年は披露されることなく、保存だけされたまま15歳になったらしい。時も経ち、彼のことを覚えているのは柑菜の周りの関係者だけだが、柑菜を気遣って彼らも天音の話題を出しはしない。事実上、彼は忘れ去られたのだ。
少年は待ち続けていた。いつか傑作としではなく人間として外に出る日を。いつかこの呪われた日々が終わることを、一人願っていた。
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