幕間

凪 その刻が来る前に

ひとりぼっちの少女


 あの日の夜。


 まだ六歳になったばかりのなぎには、一体何が起こったのかわからなかった。


 普段は奥の本殿ほんでんが、見たこともないような速度で自分の手を引き、光り輝く円の向こう側へと押し込めたのだけを覚えている。


 だが、そこには自分だけしかいなかった。


 大好きな祖母も、強く優しい両親も、いつも一緒に遊んでくれる兄姉も――――誰もいなかった。


 怖くはなかった。一人で隠れるのは得意だった。けれど――――。


 真っ暗な闇の中で凪は一人、早く夜が明けて欲しいと。暖かな陽の光が射し込んで欲しいと。それだけを願い、小さくなって隠れていた――――。



 ――――そしてその日の朝。小さな凪が心待ちにした明るい陽の光がもたらしたもの。それは、ただという惨たらしい現実だけだった。


 見たこともないような量の赤がそこにはあった。


 息をすることも出来ないような、形容しがたい臭いが全てを覆っていた。


 小さな凪の青と黒の混ざった瞳は、ただ大好きな家族だったモノからこぼれ落ちた命の赤だけを映していた。


 祖母と最後に交わした言葉はなんだったか。

 明るい場所で最後に見た父と母の顔はどのようなものだったか。

 最後に兄姉の手を握ったのは、昨日の夕頃だったか――――。


 何もかも、全ての想いも記憶も、心すら砕け散る寸前に追い込まれた六歳の凪がその後にしたこと。それは――――。



「終わりましたよ、姫様――――」


「――――ありがとうございますなのじゃ」


 大きく盛られた七つの土と、名前が削られただけの小さな石が立つ墓標の前。

 沈痛な面持ちで凪に声をかける黒と金の着物を着た女性――――玉藻たまも


 その場には、玉藻以外にも何人かの屈強なあやかし衆が立っていた。

 皆、凪の家族のむくろをこうして弔うためにこの場へとやってきた者達だった。


 惨劇を目の前にし、全てを失った凪がまず最初にしたこと。それは、自らの足であやかし通りへと赴き、頭を下げることだった。


「死んだ家族の弔いをしたいのじゃ――――でも、わたしは小さいのでできないのじゃ。どうか、お手伝いして欲しいのじゃ」


 その身に纏った着物に真新しい鮮血をべっとりと貼り付け、手にも顔にも、足の指先一本すら血の付着していない場所などなという有様の凪の姿に、その場に居合わせた玉藻は絶句した――――。


「――――また明日も来るのじゃ。明日はあね様の好きだったはすの花を持ってくるのじゃ」


 それから――――。


 玉藻たちあやかしの庇護ひごを受けつつ、凪は表向き強く、気丈に、美しく成長した。


 しかし――――その間も玉藻はずっと見ていた。小さな凪がその小さな体をさらに屈め、家族の眠る場所の前で、いつまでも呆然と座り続けているのを――――。


 時折その幼い肩を震わせ、嗚咽を漏らし、大粒の涙を零しているのを。


「――――皆の好きだった物は覚えているのじゃ。しかし、母様のお腹の子の好きな物は私にはわからん。私にはお前の好きな物を持ってきてやることができん――――……っ」


「姫様――――……」


 玉藻にはどうすることもできなかった。悠久の時を生きる大妖怪玉藻前たまもまえと凪とでは、死生観も時の流れに対する認識も違いすぎた。


 玉藻の凪を哀れむ気持ちは嘘偽りのないものだったが、哀れむが故に――――そんな自らが何を言おうと凪の心の癒やしにはならぬと知っていたのだ。 


 凪はずっと一人だった。一人になってしまった。


 あの襲撃以降、大魔王はかつてよりさらに本殿に籠もる日々が増えた。


 それが責任を感じてなのか、何かを察したのかはわからないが、凪の受けた深い傷を癒やすことは到底不可能だった。


 やがて、成長した凪は見よう見まねと祖先が残した文書から技を磨き、誰に言われぬうちに鬼との戦いに身を投じていくことになる。


 凪が小位の位冠持ちを初めて討ち果たしたのは十歳になったばかりの頃。


 しかし初めて家族の仇を滅ぼしたというのに――――凪の心にはなんの感慨も高揚感も浮かばなかった。


 鬼を家族の仇と死ぬまで殴り、滅ぶまで焼き尽くした。しかし凪自身も重傷を負い、辺りには、赤と死臭が漂っていた。



 ようやく家族の仇を討てるようになったというのに。

 荒れ果てた江戸の街をぐるりと見回す血まみれの凪は、一人のままだった。


 

 自分以外の誰にも、自分のような辛い思いをさせたくなかった。

 神代の巫女として鬼を祓う力があるのならば、それを皆のために使いたかった。

 

 あやかしたちも、江戸の人々も。凪の境遇を知る者も知らぬ者も、誰もが凪を邪険になどしなかった。凪はその思いと優しさに応えようと、一人でも気丈に笑みを浮かべ、鬼を祓い続けた。


 しかし凪の心の内には、決して昇華しきれぬ寂しさだけがあった。失い、二度と戻らぬ光景を追い求め、どこかにまだそれがあるのではと信じ、彷徨さまよっていた。


 凪自身、このような有様ではいずれ限界が訪れるであろうことはわかっていた。

 しかしそれでも、一人ぼっちの少女にはそれ以外の方法がわからなかった。だが――――。






 だがあの日――――。


 炎に燃える江戸の街で鬼と対峙する凪の前に、空から奏汰かなたが降って来た。

 

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