記憶の欠片
寝ている間ですら回復し続けていた六郎の肉体は、そこからさらに急速な回復を見せ、三日も経つ頃には自分から願い出て店の手伝いや家事などを行うまでになっていた。
「――――なあ六郎さん。何があったのかは知らんが、俺はあんたを誤解していたよ」
「えっ? なんのことっすか?」
江戸の町民、特に食料品を扱う商家の朝はとても早い。
まだ暗いうちから売り物となるどじょうの下ごしらえのために火を起こし、湯を沸かす。
教えられた通りに丁寧にそれらの仕事をこなす六郎に、まちの父、
「あんたの体にある蛇の紋を見りゃわかる。 ――――あんた、カタギじゃないだろう? 正直、最初にまちがあんたを見つけて来た時は、厄介なもんを抱えちまったと思ってたんだ」
「あー……なるほど。そう言われりゃ、確かにそういうモンかもしれませんね。これ……」
身を屈めて日の前の
「けどな、少なくとも今日までの六郎さんを見て、俺はあんたが悪い奴とはこれっぽっちも感じなかった。あんた、立派な
「旦那さん……」
そう言って六郎の肩を叩く信衛門に、六郎はなんとも言えぬ表情を浮かべて言葉を失った。
そんな六郎に向けられる優しさは信衛門からだけではない。女将も、まちも、皆が素性のわからぬ六郎に対してできる限りの心づくしを行った。
いかにまちの家が裕福であるとは言え、この時代の世情に疎い六郎にも彼らの対応が格別のものであることはすぐに理解出来た。
だからこそ――――。
その優しさに触れる度に。
その心遣いに癒やされる度に。
『――――俺だけじゃねえ。他の二人も人間共を潰したくてウズウズしてる』
その度に、今まで
命乞いをする者。最後まで大切な誰かを守ろうと足掻いた者。
小さな者も、大きな者も。
皆その手で殺した。
もしかしたら、まちや信衛門の縁者も――――いや、もしかしたらではない。間違いなく六業はその手にかけている。
何度となく江戸を襲う下級の鬼達を束ねていたのは主に小位の役目だった。
六業もまた幾度となく襲撃を計画し、実行に移している。
(なにやってンだ俺は……っ? なんでだ……? いつからそうなった!?)
未だ六業の――――否、六郎の記憶は完全ではなかった。
鬼であった頃の記憶も、人であった頃の記憶も、共に曖昧で壊れていた。
それどころか、どうして自分が
いつ、なぜ自分が鬼となったのかもわからず、どうしてあのような恐ろしいことを嬉々として行っていたのかもわからない。
ただ覚えているのは
そして、自分が鬼として多くの人々を傷つけ、その命を奪ったこと。それだけだった――――。
――
――――
――――――
「――――お兄ちゃん、すごく元気になったねー」
「全部まちちゃんと美味いどじょう飯のおかげよ! ほんと、マジで感謝してっからさァ!」
そして更に数日後。にょきにょきと育った雄大な入道雲を遙か彼方に、どこまでも広がる青い夏空の下。
六郎とまちは無数に連なる田んぼの間、細いあぜ道の上を連れ立って歩いていた。
「ねえねえ、どじょう取れるかなー?」
「取れるっしょ! っていうか川にも田んぼにもどじょうヤバイほどいるし!? ちょっと足つっこんだらぶわーーーってさァ! アレにはさすがの俺もびっくりよ!」
街中や街道ではうるさいほど近くに聞こえる
六郎はその胸に染み入るような青と緑の景色に思わず目を細め、周囲を囲む
「お兄ちゃんって、なんでもすぐに上手になるよね。わたし、ちょっとだけお勉強が苦手だから、うらやましいなぁ……」
『六郎ってさ、なにやってもすぐに凄くなっちゃうよね。流石にこればっかりは、君が羨ましいわ――――』
「にははは! だから天才なのよ! 俺! 天才だから――――って、えっ? あれ?」
その時、まちの発した何気ない言葉がなにかと重なった。
いや、それは決してなにかなどではない。
六郎が決して忘れてはならない。忘れたくないと思っていた、掛け替えのない日々の音――――。
「陽那、ちゃん……っ? あれ? なんで……」
「お兄ちゃん……? 大丈夫……?」
突然その額に手を当て、うずくまるようにしてあぜ道に背を丸めた六郎にまちが心配そうに声をかけた。
目覚めてからの六郎は、頻繁にこのようなフラッシュバックを経験するようになっていた。だがしかし、それは彼にとって苦しいものであったが、同時に全てを思い出す手がかりでもあった。
六郎自身、すでにそれを良く理解している。
だからこそ、六郎は何度も何度も、たった今浮かび上がったほんの一欠片の記憶に向かって必死に手を伸ばしていた――――。
「ああ……。ごめん……ちょっと、なんか思い出せるかなって……悪いね、毎回心配させちゃってサ……」
「ううん。私はへーきだよ……」
どっと汗を滲ませた六郎の額に、まちは慰めるようにしてその小さな手を当てた。
陽那という女性が自分にとって最も大事な存在だったことは間違いない。何よりも大切で、愛おしい。それだけははっきりと覚えていた。
だが今の六郎にはそれしかなかった。それ以外の何も思い出せなかった。
彼女の笑顔も、彼女の声も、匂いも、好きな食べ物も、何一つ思い出せなかった。
六郎には――――それがとても悲しかった。
「うし……もう大丈夫! 待たせてごめんよ、まちちゃん」
「うん! いこいこー!」
数分後、なんとか心身の整理をつけた六郎は待たせてしまったまちに笑みを向けて立ち上がり、背中に担いでいるどじょう捕り用の
そして深呼吸を一つ。頭上から降り注ぐ強い日射しに手をかざし、正面へと目を向けた――――その時である。
「――――いや。君は全然大丈夫じゃない。急いで治療しないと、取り返しがつかないことになる」
「あ……んたは……――――」
六郎が一歩を踏み出そうとしたその時。しかしその一歩が踏み出されることはなかった。
生い茂る青田の中央にまっすぐ続くあぜ道の上。六郎とまちの進行方向を遮るように、一人の女性が立っていたのだ。
「探したよ、六業。こうして早くに君を見つけてあげられて良かった。さあ、私と一緒に帰ろう」
栗色のさらりとした長い髪に、知性的な光を宿した金色の瞳。近世の軍服にも似た灰色の服で全身を固めた目の前の女性はその顔に心からの安堵の色を浮かべ、六郎に優しく微笑んだ――――。
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