第四部

第一章 彼の者の今

勇者の手 眠る鬼


 カナカナというひぐらしの鳴き声がうるさいほどに重なる夕暮れ時。

 神田上水沿いの林に囲まれた神代神社では、ひぐらし以外にも多種多様なせみの鳴き声で溢れていた。


「よっしゃああああああ! 書けたあっ!」


 そんな蝉の鳴き声に占拠されたかのような神代神社周辺に、奏汰かなた溌剌はつらつとした大声が響く。

 奏汰の大声に驚いたのか、境内けいだいの巨木に止まっていた何匹かの蝉がビビビと甲高い音を立てて飛び立っていく。


「書けた! 剣奏汰つるぎかなた! 俺の名前っ! これで合ってるかな!?」


「わぁ! 合ってます合ってます! ちゃんと書けてますよ、奏汰さんっ!」


「にゃはは! 見事じゃ奏汰よ。修練の成果が出たのう」


 なぎと奏汰、そしてつい先日から神代神社で同居を開始した新九郎しんくろうが集まる境内横の凪の家。

 縁側から射し込む西日の下。奏汰が高々と掲げた和紙には、ややいびつながらも問題なく読み取れる太い字で、と書かれていた。


 あの江戸城御前試合から二週間ほどが過ぎていた。

 梅雨は終わり、季節は完全に夏一色。


 あの日以来。奏汰は武芸の稽古のみならず、玉藻たまもが教師を勤めるあやかし達の寺子屋にも通い始め、こうして家に帰ってからも読み書きの勉強に余念がなかった。


 それは、今の自分に出来ることは全てやるという奏汰の懸命さの表れでもあったが、それ以上に師匠である新九郎の言う『心の余裕』のためでもあった。


「こんなに早く文字が書けるようになるなんて、やっぱり一度習っていただけはありますね! この調子なら、きっとすぐに他の読み書きもできるようになりますよっ!」


「ああ! 全部新九郎の言う通りだったよ。稽古のいい息抜きにもなるし、それになんか元気になるし!」


「ほむほむ……まっこと新九郎は師としての才能に溢れに溢れておるの……。正直、新九郎の教えの的確さにはこの私も驚くばかりじゃっ」


「ふ、フフフフ!? フンフンフーーーン!? そ、そうですか? やっぱり? いやぁ……自分でもそうじゃないかなと常々思っていたんですっ! もっと! もっと褒めて下さい! もっと!(ドヤッ!)」


 両手を挙げて喜びを表す奏汰と、心底感心したとばかりに何度も頷いて見せる凪。そしてそんな二人の前で腰に手を当て、ドヤドヤする新九郎。

 もはやお約束となった三人のやりとりだが、新九郎の奏汰への教えは、そうなっても仕方ないと思えるほどにとにかく的確だった。


『――――いいですか奏汰さん。常に剣ばかりを握っていても、刃の切れは増したりしません。むしろ、宿んです』


『え!? そうなのかっ!?』


 御前試合を終え、打倒真皇しんおうのために気構えを新たにした奏汰を前にして、しかし新九郎は努めて冷静に奏汰を諭す。


『覚えておいて下さい。人の手は決して剣を握るためだけにあるわけではありません。書をしたためるために筆を持ち、土をたがやすためにくわを持ち、そして時には、共に歩む誰かの手を握るためにあるんです。僕は、父上から何度もそう言われ続けてきました――――』


 新九郎のその言葉は、新九郎自身へのいましめであるようにも聞こえた。奏汰にそう諭しながら、新九郎もまた、父の至ったその境地を目指す一人の剣士なのだ。

 共に剣を生業なりわいとして生きる者同士、新九郎の言葉は奏汰の心に実に良く響いた。


 それ以来奏汰はこうして、来る日も来る日もその手に握る物をとっかえひっかえ、様々な事柄に挑戦し続けていた。しかし――――。


「奏汰さん、ちょっといいですか……?」


「ん?」


 喜びも一段落ついた頃。新九郎はふと思い立ったように奏汰の傍へとすすっと膝立ちで近づくと、零れた墨で汚れた奏汰の手を取り、その平を見つめた――――。


「……とても、固い手です」


「……そうじゃな」


「……?」


 その手のひらを見つめる新九郎は静かにその瞳を閉じ、奏汰の手の感覚を確かめるように、その手を両手で包み、支えた。

 すでに奏汰の手がどのようなものかよく知っている凪もまた、新九郎の言葉にその眉を寄せ、重苦しく頷く。


 奏汰が異世界から江戸へとやってきて二ヶ月以上が過ぎている。

 しかしその手のひらは、凪と奏汰が出会ったあの日の朝、寝ている奏汰を見つけた時に確かめた頃のままだった。


 奏汰の手は固くひび割れ、もはや修復不可能にも見えるほど崩れている。


 もし凪や新九郎が奏汰の手のひらを強く握り締めたとすれば、それは二人にとって痛みを伴う行為になるだろう。それほどまでに、奏汰の手はいびつに傷ついていた。


 奏汰のその手は正に、新九郎が言うだった――――。


「奏汰さん……。師匠として、僕から一つ宿題を出します」


「宿題?」


 新九郎は静かにその手のひらに自らの白い手を重ね合わせて覆うと、真剣な眼差しを奏汰に向けた。


「どれくらい時間がかかっても構いません。奏汰さんのこの固い手の平が、柔らかくなるように意識して過ごしてみて下さい。もしかしたら、奏汰さん自身にもなにか新しい発見があるかもしれません」


「俺のこの手を――――柔らかく――――?」


 新九郎から言われたその不思議な課題に、奏汰は目をまたたいて自身の手を見つめた。

 しかし一方の新九郎は真剣そのもの。心から何かを訴えるようにして奏汰を見つめていた。


「はい――――。奏汰さん。あなたは大切な人なんです。そんなあなたの体に、大切じゃない場所なんてどこにもないんですよ――――」


「新九郎……」


 新九郎の呟くような、願うようなその言葉。

 それは果たして、どのような思いから出た言葉であったのか。


 しかしそれを新九郎自身が理解するよりも早く。その言葉と思いは途切れることなく鳴り響くひぐらしの鳴き声に紛れ、溶けるようにして消えた――――。


 

 ――

 ――――

 ――――――



「ただいまー! 今日のお勉強おわったよー!」


「ああ、おかえりまち。着替えたら夕餉ゆうげの用意を手伝ってくれるかい?」


「はーいっ!」


 同時刻。神田上水沿いの長屋街からほど近い商家。


 商店と自宅を兼ねた比較的裕福なその家屋に、薄紅色うすべにいろの着物を着た十歳にもならない少女――――かつて奏汰に猫の捜索を依頼したが、寺子屋での勉強を終え、元気な挨拶と共に入っていった。


 この頃の江戸において、寺子屋は男児だけでなく女児も分け隔てなく通うことが可能だった。


 無論、男児に比べれば女児を通わせる家は裕福な家庭に限られたものの、まちのような商家の娘は将来の稼業かぎょうの助けになると、読み書きだけでなくそろばん勘定かんじょうなどもしっかりと学ぶのが常だった。


 まちの家は、家からすぐ目の前の神田上水で豊富に穫れるどじょうを使った佃煮の専売を生業としていた。

 幸い商売は大変繁盛しており、人手はいくらあっても足りないほど忙しく、まちもこうして母や父の手伝いに励んでいた。


「おかあ、もう起きた?」


「ん? ああ。まだ寝てるよ。そう心配しなくても、お医者様はみるみるうちに良くなってるって言ってるから、そのうち起きると思うんだけどねぇ」


「そっかぁ……! ちょっと見てくるー!」


「あ! ちょっと、まち!?」


 だがしかし。忙しく台所に立つ母親の制止も聞かず、まちは二階へと続く階段をとたとたと駆け上がり、二階の廊下の突き当たりにある一番奥の部屋へと向かった。


 まちはその部屋の前まで来たところで走るのを止めると、そっと、静かに部屋の戸を横に開いた。そして――――。


「ほんとだ……まだ寝てる……」


 まちの見つめる先。五畳ほどの部屋の中央に引かれた布団の上に一人の青年が寝かされていた。


「早く起きないかな……?」


 まちはそっとその青年の傍にいくと、その整った顔立ちを覗き込み、窺うようにして呟いた。


 まちの見つめる前で眠り続ける青年。それは褐色の肌に金色の髪を持ち、全身に蛇の紋が浮かぶ逞しい体躯の青年――――黄の小位、六業ろくごうだった――――。


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