54

 完成した絵は、彼女によって売り払われてしまった。


 正確に言うならば、ごくわずかなお金を貰っただけでなく、絵を押しつけることをも成就させたのである。そして、欲しくもない絵を家に置くことほど不愉快なことはないと、彼女の知人はさっさとを捨ててしまった。いまはもう、鹿島の絵を見ることはできない。残念なことであろうか。筆者は、彼にとっては幸福なことだと考えている。


 鹿島は亡き人のなかに数えられている。それは、物語から放擲ほうてきされたということ以上を指し示すというのは、言うまでもないだろう。彼の葬儀に列席した者のなかには、筆者の知り合いはいなかったし、この物語における登場人物のひとりもいなかった。しかし仄聞そくぶんしたところによると、筆者が想像していたよりは壮大な葬式だったようである。無論、彼の人生のうちで、最も幸せな一瞬であったという意味において。


 庫裏くりの中庭の鹿威ししおどしが、しばしば鳴るような季節になった。だが、がらんどうの音韻おとを破り切るほどの威勢は持ち合わせていない。


     *     *     *


 筆者の元には、続々と新しい資料が集まってきている。供給過剰と言えないこともない。ほとんど毎日のように、真贋しんがんを確かめながら、使えるものとそうでないものとをり分けている。言語的な面で、筆者が読解不可能なものもあるが、O・Y氏のサポートもあり、資料として使用することができたものもある。しかし彼をもってしても解読できないものに関しては、残念ながら横に置くしかない。そのため、そうした部分は、筆者の想像で埋めるしかなかった。


 本作が「物語」である所以ゆえんは、この一点に尽きると言っていい。資料に基づき構成されていない以上は、創作の一種として見做されるしかない。だから「本作は虚構である」ということを宣言して構わない。というより、そうすべきである。もし事実的な部分があったとしても、創作的な要素が接木とされているからには、そう扱うべきなのだ。


 ところで、筆者自身も、確固とした存在ではない。筆者自身も架空の存在である――というわけでもない。しかし、筆者は実際の人物である――ということでもない。


 これは、どういうことであろうか。それは、本作の後半で語られることであり、核心的なテーマでもあるから、ここで記述するのは差し控える。


 さて次は、あの庫裏くりから決して遠くないところにある、或る書店の話をしていこう。


 この物語に関する資料は、意外にも豊富である。筆者等ひっしゃらによる地道な捜索が功を奏したわけではない。ほんの、偶然である。もちろん、序盤の物語を紡ぐ上で使用した資料の数に比べれば、多いとは言えない。それでも、興味深いことが書かれていないこともない。


 さらに、それらの資料には、主要な人物の名前が書きこまれているため、「彼女の母」のような表記をしなくていい。これは、筆者にとって望外な喜びである。というと大袈裟と思われるかもしれないが、長らく「彼女」とか「彼女の母」とか、代名詞で物語を書くことはたいへん苦痛であった。煩雑なだけでなく、読者の方々にしても迷惑だったと思う。


 ここで附言しておくと、本作においては、資料にあるような性描写を省いている。できるかぎり隠語を用いている。


 しかし、資料にある性描写をそのままに反映した状態のものを、今後どこかで発表するかもしれないことを、一応、ここに明記しておきたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る