53

 戴冠たいかんの重圧により鹿威ししおどしは屹立きつりつし、飛び石の上に雪を落とした。カコンというが聞こえないこともなかった。しかしそれはおととして響いたのではなく、気配として感じ取れるものだった。


 彼女の母を待つ鹿島からしてみれば、その気配を察知しないわけにはいかなかった。灯りのない部屋へ、彼女の母は忍んでやってくる。雪と月光で、中庭を巡る渡り廊下は明るくなっている。履物は薄らと積もった雪を踏んでいく以上、がらんどうの音韻おとを破るほどの勇敢さを発揮することはできない。


 噴火口から嘔吐されるマグマは、今日も彼女の母の咽喉のどにエクスタシヰを与えて、びくんびくんと身体を震わせるに足りた。


 鹿島の目線はもちろん、障子の隙間に眼を当てている彼女に向けられていた。は鹿島により征服されており、同時に彼は籠絡されており、そしては解放の歓びに浸っている。この美しいポリフォニー。月光はりの曇を払って、彼女の背中を、青く冷たく潜在的ひそかに輝かせている。


 むかし、彼女が懸想けそうしていたサッカー部の男子は、既に一夜を済ませているのだと仲間に豪語していた。教室の片隅で、クラス全員に言い聞かせるようにあからさまに、処女と童貞のセレモニーを語った。しかし、彼はあっけなく捨てられた。


 緞帳どんちょうの向こうで手淫に耽る日々へ逆戻りしてしまった彼のことを、彼女は軽蔑するしかなかった。栄冠を頂いた者が叛逆はんぎゃくにより成敗されることほど、彼女を幻滅させることはなかった。このまま彼の青春は、恥辱の歴史だけを紡いでいけばいい。彼女はそう冷笑し、彼への恋は瞬く間に冷却され、閑却かんきゃくされ、散逸した。


「あれから、フランス文学を読みましたか」


 事後、彼女の母につたのように絡まれて、掛け布団に蹂躙されていた鹿島は、ふと口を開いた。こうしたことは、鹿島からすれば、関心事のひとつとして成立しているわけではなかった。だが、無聊ぶりょう懶惰らんだな一時の空隙くうげきを埋めるだけの効力は持ち合わせていた。


「短いのを四つほど読んだわ」

「退屈でしたでしょう」

「どうして」

、という風に言いませんでしたから」

「そんな気どった言い方、わたしは嫌いだわ」

「自分は好きです。喇叭らっぱを吹いている天使が涙を流しているところが、想像できるものですから」


 彼女の母は兇悪きょうあくな蔦がそうするように、彼の身体を永久に固定しようと力強く縛り上げた。

「解いてほしかったら、もう一度、もう一度だけ、ませて頂戴」

 鹿島は否定もしなかったしうなずきもしなかった。ただやみのせいで見えない天井の表層おもてに、喇叭を吹く天使の姿を探し求めるだけだった。


 こうしているうちに彼女はもう、ひっそりと障子を閉めて逃げ去っていた。屈辱を与えられた気分だった。――その言葉を母に求めることに、彼の傲岸不遜ごうがんふそんを見出したからである。


「くたばってしまえばいいのに」


 自分の部屋に戻り枕に顔を押しつけて声を殺して泣く彼女のことを、喇叭を持った天使が本棚の上で足を組んで見下ろしている。……

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