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 夜の底に敷かれた雪で手を洗うと、掘り起こしたような痕跡が残る。もちろん彼女は、その小さな庭の変化に鋭敏だった。そして、変化があったということから、あれこれを推察することに長けていた。いや、長けていたというより、そういう妄想をすることに惑溺わくできする歳なのかもしれない。


「お手洗いまで遠いですからね」


 鹿島は黙ったままだった。彼女の皮肉を不愉快に思ったわけではない。自尊心を毀損きそんさせるための試論を企てる彼女に嫌悪を覚えたわけでもない。単に、彼女はどこまで勘づいているのかということに興味を持っていたのだ。


 興味――そう、背徳感から芽吹いた憂虞ゆうぐではない。どうせ破滅する宿命を背負っているのである。勘づかれたところで、どうということはない。むしろ、彼女を巻き込んでやりたいとさえ思っていた。


 無論、肉体的な交わりに参画させようとしているのではない。むしろ、彼女の母との関係を完全に察知させることによって、こころに動揺を感じさせてみたかったのだ。鹿島にとって、破滅は嗜虐しぎゃくと表裏一体であるから、なのかもしれない。


 それも、美しい嗜虐と裏表うらおもて――と、鹿島は思っている。禁欲的な生活を経ている彼女が、密かにエピキュリアンを志向しているにも関わらず、父という存在への配慮のために、自らで自らを抑圧しているということも知っている。


「その秘密を……」

 鹿島はついに口火を切った。諦念と美麗が瞬時に混交して火花となり、彼女の目の前で散った。

「その秘密を知りたければ、今夜、そっとこの部屋を覗いてみるといいでしょう」


 彼女は、虚栄心を満たすことに成功したと言っていい。母とこの男が不貞行為をしていることは知っている。不貞行為?――なぜだか彼女には、プラトニック・ラヴに見えていた。それはともかく、もうその事実を知り得ているのに、その知悉しりつくしていることを相手に吐露させたという成果は、彼女にとって、革命的な勝利であった。


「お断りしますわ」

 冷笑が表情に現出しないように努めながら、彼女は鹿島の申し出を悠然と断った。

「夜に異性の方のお部屋に行くのは、なんだか気がひけますから」


 しかしその言葉は、儚いことに彼女を打ちのめした。番茶をすする鹿島を成敗したつもりが、母の脇腹まで斬ってしまったように感じたからだ。気がひけることを敢然かんぜんと為しているのは、彼女の母の方であるのだから。


 だが都合がよいことに、彼女は反抗期を迎えていることを自認できていなかった。だから、彼女の想像における母の脇腹は、瞬く間に自然治癒力を発揮した。しかし彼女が、反抗期というものを冷静に見つめることができていたならば、この部屋を飛びだしていたに違いない。


 だがしかし、彼女は戸惑っていた。調停できないふたつの気持ちを抱えていたのだ。ひとつは、鹿島をどこまでも見下したい、嘲弄してやりたい、幾分か操作してやりたいという残虐性である。


 そしてもうひとつは、図らずもそんな鹿島に魅力を感じてしまっている自分を、見出してしまっていることである。それは恋などという文学的なものではなく、自分が所属させられている家族というものを、外部から揺るがす、かけがえのない存在に思えているのだ。


 雪を戴冠たいかんした鹿威ししおどしは、いまも、がらんどうの音韻おとから中庭を護ろうともがいている。

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