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 長らく鹿島の「暢気のんきな日常」を描いていることに反感を覚える読者の方のために、ひとつ注釈を加えておきたいと思う。「絵」を完成させた翌日に、鹿島は、死者のひとりに数えられることになる。つまり、筆者が描いているのは「暢気な日常」ではなく「儚い余生」なのだ。


 しかし筆者はできるかぎり、鹿島の「儚い余生」を描ききりたいと考えている。そして恐縮ながら、事前の予告を撤回させていただき、いままでに言及したことのない人物のことを、、少しだけ書きたいと思う。

  筆者記


 以上のこと、御寛恕ごかんじょ頂けると幸いです。

  遺族より


     *     *     *


 は、激情的に噴出したマグマを受け止めたつまんで、それが冷めきる前に口腔くちに貯めこみ、彼の唾液を貪った舌で弄び、一滴残らず飲み干した。


「あなたはあれから、フランス文学を読みましたか」

 原液の摂取に、幾度目か分からぬエクスタシヰに浸っていた彼女の母に向けて、鹿島は出し抜けに言った。

「Guy de Maupassantの小説を読んだわ」

「そう……」

「ふたつ、みっつの短篇だけ」


 鹿島は目をつむり、交わりの疲れを武器に眠ろうとした。いつもならば、その姿を見ると、彼女の母は身だしなみを整えて去るのであるが、今日ばかりは、萎えたものを愛おしそうに撫で続けていた。


 鹿島はその手を払いのけて、身体を横にして彼女の追撃を拒絶した。すると観念して、何処にいるのかも分からぬ朝陽を思いつつ、ふちに雪を残した渡り廊下を、音を立てぬように踏んでいった。


 あれだけ抱いたにも関わらず、鹿島の杭はまだ勇気を持っていた。夏ならば、すでに朝であろう時間に、彼女の母ではない、を想い、手淫に耽った。そして、障子を開けて廊下に膝を突き、身を乗り出して、雪で手を洗った。


 そして指先の冷えにさいなまれたまま、眠れぬ夜を越して、が運んできた朝餉あさげに箸をつけた。彼女は、鹿島と母の間で営まれたことの残滓ざんしを見つけようと、至る所に眼を向けて、それらしきものがないことに対して、こころのなかで冷笑した。


 しかし自らの慰めのために必要としているを、居候の男性へと求めた母の心境に、同情に近い羨望せんぼうを覚えているのも事実だった。だが、年齢の関係上、鹿島を分有することはできない。


 彼女は同世代の高校生たちを心から軽蔑していた。という哲学を持つ彼女が、画一と多様の二項対立で悩み苦しみ、衝突と和平に明け暮れる者たちに侮蔑を感じるのは当然といえば当然だった。


 彼女はいままで、たくさんの人物の姿イメージを慰めの道具としてきたが、その者たちは彼女の妄想のなかで、を慾望するという一点において共通していた。


 その人工的な共通性を創造することが、自分は現実から乖離かいりした地平で超越的な存在として君臨しているという自我を、彼女に抱かせているのである。地平?――いや、彼女は地に足がついていないからこそ、神的ななにかを内面化していると自覚しているのである。


     *     *     *


 追記


 筆者の手元の資料には、彼女たちの名前が記されていないので、「彼女」「彼女の母」という表記にしている。

 この点について、O・Y氏より「注記すべき事柄である」という指摘を賜ったので、ここに追記しておく。そして、氏の指摘に感謝を申し上げたい。

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