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 白昼ひるになるとしんしんと雪が降りはじめた。渡り廊下のふちが白む。


 中庭からこの廊下のしたを流れていく小川は、凍てついて沈黙していた。しかし二人にとってこの小川の残滓ざんしが、こちらとあちらの分かれ目を意味していることに変わりはなかった。こののようなものは、軽々しく越えられるものではなかった。のみならず、夜になるとこの境界線は、阿弥陀籤あみだくじのように複雑な線形へと変化することもあった。


 彼女の母は、噴火口を刺激し溶岩を放出させる術に長けていた。のみならず溶岩を飲み干すことに酷い悦楽よろこびを覚えているようだった。彼らは電気をつけることはなかった。がらんどうの音韻おとが張りつめた、すっかり夜闇に沈んだ庫裏くりく光は、蛍火というより灯台のあかりに違いなかったから。だがそれ故に、彼女の母の咽喉のどは溶岩を繊細に感じ取り、たまらぬ愉楽よろこび惹起じゃっきさせるのだった。


 ふたりはがらんどうの音韻おとを破らぬように、体位を工夫し、彼女の母は下着をくわえた。それ故、ふたりの聴覚は鋭敏になり、獣性けものの音を太鼓のようにし、ときには、誰かにも構わないと思うくらいにエクスタシヰに捕縛されていた。つまり、渡り廊下を忍んで、寒さ厳しい中庭を背負い、障子の隙間からふたりを見ているに気付くことはなかった。


「あなたはいままで、これくらいの量を一度に出したことはあるの」

「もう、忘れましたよ」

「散々きたせいで忘れてしまったのか、本当は、全然オンナを抱いていないのか……どちらなのかしらね。覚えていないということは、そういうことでしょう」

「あなたに事実を突きつけるのを、かわいそうだと思っているのかもしれませんよ」

「どうかしら」


 彼女の母は、やみに身体を紛らせて、ひっそりと境界線を跨いでいった。ひとり取り残された鹿島は、己の意志というものに思考を巡らした。自分の意志が軟弱なのではない、意志に従順ということでもない、無論、意志を隷属させているわけでもない――これは、宿なのだ。


 毎夜、こうした結論を覆すことができない。しかしこの宿命に抗うことができる手段があるとすれば、藝術に忠誠を捧げることだけであろう。それ故に彼は、陽の光が中庭を照らしているときだけは、至上な幸福を感じることができた。だが一方で、夕陽の沈むころになると、別の形の高揚感みたいなものが頭をもたげてくるのも事実だった。


 日中、彼女が鹿島のもとを訪れることは、ないこともなかった。しかし彼女は、自らの母の不貞行為の相手である彼に、少なからず敵意を持っていた。だがそれ以上に、好奇心のようなものを抱いていた。父と母は睦まじく生活をしている。しかしこの鹿島が――あのような夜の営為いとなみが、この家族の安泰を担保している一角なのではないか。彼女はこの思索に注力するあまり、自然と彼の部屋に足を運んでしまっているのである。


 筆者は、彼女にひとつふたつ、助言を与えたいところではあるが、今回ばかりは、差し控えるしかない。

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