48

「もし自分に抱かれてしまったら、あなたはもう、戻れなくなりますよ」


 がらんどうの音韻おとが張りつめるなかを、その言葉は斬るように走り、眼前めのまえで瞬くまに凪いだ。白い息に押し返されたあと、滔々とうとうと川に流れて、こころよく抱きしめられ、優しく鼓膜を揺する。


 劣位に置かれた者が、優位に居座る者へ、叛逆する。いや、優位という概念の内側に、劣位は潜み、それらは混交し、眠っていた獣が目を赫く光らせる。……


「でしたら、できるところまで、続けましょう。そうした関係を」


 鹿島の部屋の周縁にあった渡り廊下は、中庭は、鹿威ししおどしは、夜闇に澎湃ほうはいとする静謐しずけさは、瞬間的に、彼のへと包摂されてしまった。爵位を叙されて、威風堂々と、外部から内奥へと旅立つ。


「寒い……」

「そうでしょう。抱かれる前は、寒いものです」

「けれど、温くしてくださるのでしょう」


 鹿島は、目をつむり沈黙した。彼の麓に膝を崩して座る彼女の母は、ふとん越しに、屹立しようかと迷う男根を、泣きべそをかいている子どもをなだめるときのように撫でた。


 転倒した子どもの膝頭を流れる血から、目を逸らし、汗のにおいのする髪を撫でる、寓話の如き擬態。……


かせてくれるのでしょう」

「だれかに気付かれてしまうかもしれませんよ」

「なら、下着をくわえますわ」

「そういうことではないのです。直感は、五感を超越しますので」

「でももう、あなたのここは……」


 ふとんの下に手を忍び込ませた彼女の母は、彼の獣性を煽った。ライオンの尻尾を洗うように、繊細に。鎌のような三日月を、めるように。四則演算の根茎リゾームを、断つように。


「あなたは、フランス文学を読みますか」

「どうして」

「静かな夜ですから」

「そう……」


 彼らは月明かりだけを頼りに、冷たい唇を貪りあった。


 晴れない霧のなかへ、目をつむって踏み込み、苔むした地に足を濡らし、手風琴アコーディオンを弾く何者かに誘われる。砂の城は、陥落する――春になり、ようやく。……


 ペエパア・ナイフを取りだし、巻煙草をくわえながら封を切る。なかには、一枚の絵。ラベンダー畑に寝そべり、永久の栄華をまぶたの裏へ描き、春の陽を胸に落とし、秋の風に髪をゆすがれている、妲己だっき。……


「もう、堪忍して頂戴……やわ体躯からだなのですから」


 山城やまじろは、桜の幹に貫かれ、花開き、焼き払われ、火の粉が降りそそぎ――乱舞する幽霊的な我々よ。……


 庫裏の裏の山の稜線に、犀利さいりな光が走りはじめた。中庭の飛び石や石灯籠や鹿威しは、まだ深更の残滓ざんしに守られていた。しかしがらんどうの音韻おとは、自然界の平常心により切り崩された。寒風は渡り廊下を吹き抜けていき、幾つもの部屋の障子をかすかに揺らした。


 はもう、どこかに引っ込んでしまった。


 鹿島は天井をぼんやりと見つめながら、これから彼女の母を何度も抱くことになることを思い、放蕩に沈湎ちんめんしたあの頃のに、何度目か分からない入信をした自分に、盛者必衰へと抗う或る宿命を見出し、透明に近い藍色の感傷にかれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る