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 カンバスは下絵が剥がれるかと思うほど、軽佻浮薄ともいえるたいをしており、意味深長な次の間の堅牢な冷気に晒されて、鬱屈とした影を夜闇のなかに忍ばせていた。家族の棲むほうとは違い、墓の近い森を背負った鹿島の借り部屋は、犀利さいりな刃物を突き立てる幽霊が、夜這いするのをはばかるほどの、がらんどうの音韻おとが張りつめている。鹿威ししおどしは相変わらず寂しく固まったまま、被さった雪の名残に月明かりを走らせていた。


「あなたはもう四十くらいですか」

「なんで、そんなことをくのです。わたしのような年のひとを抱きたくはないですか」


 鹿島は、考えを巡らせながら、この女性の娘のことを思った。彼女が、年が熟れたときには、この母と相似の風采ふうさいになるのだろうか――と、そんな妄想が頭に浮かんだところで、ふすまの向こうから次の言葉が染み渡ってきた。


「わたしは、テクニックは達者ですのよ。あなたの好きなようにしていいですし、望むことをしてあげられますけれど……それでも嫌でしょうか」

「いえ……そういう問題ではないのです」

「では、どのような足かせがあるのでしょう。わたしに夫がいるという、それだけの理由でしょうか」

「もちろん、それだけの理由です」


 この女性と身体的な関係を持ってしまえば、庫裏くりにはいられなくなる。鹿威しが鳴る音も、夕陽が走り濃い影が落ちる廊下も、寂寞を引き連れて物思いに耽る散歩も、彼方へと押し込められてしまう。いままでの経験上、一度抱いてしまえば、二度抱き合ってしまう。鹿島の意識としては、自分の性慾は既に、空気の抜けたゴム風船の様子を呈しているはずだった。しかし、彼のさっぱりしたはずの下半身は、密かにうずきはじめていた。


「絵が完成したその日なら、抱いてもかまいません」

「それは、いつくらいになるのでしょう」

「いつかは分かりません。分かっているのは、いつかは絵が完成するだろうということです」

「何度も言いますけれど、わたしは、、あなたに合わせられますよ」


 このやりとりのなかで、鹿島は、自分の技術を侮られている気分がして、不快を覚えていた。もうすっかり退役しているとはいえ、銃の構え方だけではなく、持ち方も、照準の合わせ方も、目標へ発砲する術も、身体に染みこんでいる。あれだけ放蕩を尽くしたのだから、いくらでもかせて見せることはできよう。


 鹿島は目をつむり、もうこれきり口を利かずに眠ろうと思った。しかし眠り方を忘れたみたいに、意識は障子の向こうに矢印を向けてばかりいた。まだ、彼女の母は去ろうとしない。中庭を巡る渡り廊下は、外と一続きであるのに。


「寒いでしょう」

「ええ、寒くてしようがありません」

「もう帰った方がよくはありませんか」

「どうしても、ここに入ってはいけませんか」


 拒否リジェクトの言葉がひとつも浮かんでこなかった。浮かんでくるのは、いずれするかもしれない、彼女の母との、獣と獣の交わりの光景だけだった。いま月明かりは、彼女をどれくらい美しく見せていることだろう。寂しい影を、薄らと雪をかぶった廊下に投げている彼女は。鹿島はぎゅっと目を瞑ってぱっと開き、片方の手に勇気を、もう片方には木刀を持ったつもりで、彼女に向けて、こんなことを言ったのだった。……

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