46

 月から静寂が沈んできた夜、部屋の灯りを消し、月光と白雪の明かりを頼りに手淫をした鹿島は、だれも起こさないようにそっと障子を開けて、寒風を庫裏くりのアトリエへと誘った。


 色を重ねていくうちに、求めていた色は遠ざかり消失し、しまいには、布を張り替えて一から描き直すことにした。渡り廊下に囲まれた中庭に降り積もった雪で指を洗い、置炬燵おきごたつの火に手をかざしてから、布団にもぐりこんで、身体をくの字に折り畳んだ。


 しかし、眠気が背をさすってくれることはなかった。身体に温もりが廻らず、手淫に使用した指はことさら冷たくなっていた。夢のなかでも手淫をしているかもしれない。誰の手で?――これ以上のことを考えるのを、鹿島は止めた。代わりに彼女のことを想像した。彼女の似写しドッペルゲンゲルの唇を、人さし指で押した。もちろんその指は、清純な処女の顔をしていた。


     *     *     *


 中庭を廻る廊下を草履ぞうりが踏む音で目を覚ました鹿島は、夢と現が反転し反復し転覆するなかで、履物はきものを隷従させているのは彼女の母であることを悟った。ハズバンドのいるところとは対極にある鹿島の部屋を横切るということは、なんらかの記号シグナルを発しているわけだが、その意味をむための労力を、彼は持ち合わせていなかった。


 このワイフは、鹿島が寝ているのかどうかを伺っているらしい。もう一度部屋の前を通り過ぎるときは、わざと足音を弾ませた。すると鹿島は悪戯をしたい気分になり、寝返りを打って見せた。障子の向こうから秘めやかな声が聞こえてきた。


「起こしてしまいましたか」――間違いなく、彼女の母ワイフの声だった。

「向こうから草履の音が聞こえたものですから」


 鹿島は仰向けになったまま深呼吸をし、手淫の痕跡がないかどうかを確かめた。その名残はもう、まだ冷えている指にしか感じられることはなかった。


「なにか、自分に御用がありましたか」

「……なぜ、そう思うのです」

「こちらの方には、自分しかいませんから」


 しばらくは、月の静けさしか聞こえてこなかった。凍えついた鹿威ししおどしに積もっていた雪が、そっと飛び石の上へ覆い被さった。


「あなたは、淫蕩いんとうを尽くしてきたのでしょう」


 彼女の母は躊躇ためらいがちにそう問いかけた。きっとレスなのだろう。たとえ寺社だろうと、ひとが生活をしているかぎりは、煩悩は芽吹き種子を撒く。鹿島は黙ったまま、もう一度、寝返りを打った。響きあるものは、すべて地へと沈んでしまった。或いは、月のもとへと帰ってしまった。もしくは、神々の肺へと吸い込まれてしまった。そして少しくらいは、地獄インヘルノに堕ちてしまった。


「あとどれくらいで、絵は完成しそうですか」


 鹿島は、それには答えなかった。完成まであと、どれくらいかかることだろう。当初の予定とは反して、ぐずぐずとここに居残ってしまっている。この我儘わがままが通じるのはもちろん、彼女の父ファザーをのぞく、この家の人びとのおかげだった。


「完成する前に、一度だけ、抱いてくれませんか」


 この切実な頼みを――彼女の母の疼きを、断れる立場にいないのは明白だった。鹿島は、絵の立てかけられている向こうの部屋の方を見つめながら、この実際的な問題について考えを巡らせようとした。

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