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 鞍置くらおきき馬が一疋いっぴき、鹿島が乗るのを待っている。行先を知っているのは、この馬のみである。置炬燵おきごたつの前で居眠りをしてしまった鹿島の傍には、ふすまに寄りかかっているカンバスがある。


 鹿島の後ろに群生する顔のついたあしが、彼の身体に巻き付き縛り上げる。馬は駆けていく。荒野を廻っていく。鹿威ししおどしは震えるのも忘れて春を待っている。庫裏くりの渡り廊下には、薄らと雪が積もっている。履物はきものの跡もついている。


「置炬燵の上に倒れたら火事になってしまいますから、隣の部屋へ持っていってくれませんか」

「お目覚めのついでに、あなたがしてはいかがでしょう」

「まだ、考えたいことがありますから」


 覗き眼鏡に目を当てると、網代屏風あじろびょうぶの後ろで獣が戯れている。……


 鹿島が彼女に慾情しないのは、彼女に妖艶さを見出すことを虚構化する悟性的なものが、凌霄花のうぜんかずらのように咲き誇っているからだ。


「筆はうまく動いてくれないみたいですね」

「筆は悪くないのです。責任を負っているのは、自分ですから」


 鹿島の率直な言葉に、彼女は母性を入れ込んだ微笑をした。


 年の離れたふたりは――彼女はまだ、高校生である――しばらく黙然としていたが、「廊下にいると寒いですよ」という鹿島の言葉をしおに、彼女は座敷に入り、隅に押しのけられた机の傍に座り、寝転んでいる彼の横顔に視線を集めた。


 彼女は、特別な感情を鹿島に抱いている。もちろんそれは、恋情である。彼女が首を振ろうとも、一方通行の恋心が芽生えているのは自明だ。


 しかしその恋情は、うまく輪郭を浮かび上がらせることができていない。恋心を囲もうとする輪郭線が、母性というはさみによって絶えず切断されてしまう。働かずに、ひとり絵を描いているこのオトコに対して、同級生との間に芽吹くのと同様の概念ラヴが生じるはずがない。溢れんばかりの母性が、恋心の形成を阻んでいる。


「キスをしてあげましょうか?」


 彼女はもちろん、冗談としてこの言葉を受けとった。そして、冗談として受けとられたことで、この言葉は、鹿島にとっても冗談として成立した。それは、彼女にとっては、残念なことであろうか。しかし少なくとも、鹿島は後悔を覚えた。


 この言葉の含意のが、彼女のな受け取りにより、切り崩されたことが、時間の経過とともに後悔を累進させた。一方で、唇の処女ヴァージンは、ロマンスにより剥奪されるべきだと、彼女は考えていた。それに関しては、逸脱の経路は一本もない。


「お土産のところを、留守にするわけにはいきませんから」


 彼女は障子の方へと身体をねじりながら立ちあがると、取手とってに右手の指をひっかけたが、うんとも言わなかった。羞恥の朱が染み渡りそうになるのをこらえて、両手で障子を開けると、半分までひらいたところで、身体をくぐらせた。


 鹿島は寝返りを打つと、彼女のことを考えはじめた。正確には、ぷっくりと膨らんでいる紅い唇のことを想像した。そこに、性的な含意はなかった。彼女のルージュを通して、彼女を彩るもののについて想像イマージュしていただけだ。


 そそくさと去っていったはずの彼女は、冷たい廊下に足をかれながら、息を忍ばせてなかの様子を――鹿島が眠ってしまったかどうかを、うかがっていた。


 鳴らぬ、鹿威し。雪曇りの空に、鳥は一羽もいない。風に身をまかせて、変化ふらふらしながら舞う粉雪。……

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