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 鹿島はカンバスをひとつ調達した。そして1カ月のあいだ、或る寺の庫裏くりの一画に住み込むことになった。


 楊柳観音ようりゅうかんのんを描いた掛軸の下には、黄水仙が銅の花瓶に一輪挿してある。渡り廊下に囲まれた中庭には、傾きはじめた陽が差して、鹿威ししおどしに流れてくる水の煌めきが冴え渡っている。カコンという音が波紋のように広がっていくと、前よりいっそう静寂は透き通っていった。


 辺りが暗くなってくると、鹿島は絵を描くのをやめた。庫裏から出て境内を鳥居の方へと真っ直ぐに歩き、道路を横切って右に曲がった。くすんできた焦茶色のコートの襟に首を埋めながら、ようやく仮の色を置く段階へ進んだことに少なからず満足を覚えていた。


 それは、寂寞のエナメルをまとった満足である。この絵が仕上がれば、いままでの人生が一段落する。いま思えば、峻厳とした山脈の稜線のように起伏の激しい半生だった。恐るべきほどに色慾に振り回されていた。


 煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい――堂々とした筆蹟でそう書かれた額は勝手に下ろしてしまったが、誰もそのことをとがめはしなかった。代わりに一枚の絵を吊したが、それに眉を顰めるひとはひとりもいなかった。


 その絵は、曼荼羅まんだらの写しではない。斎戒沐浴さいかいもくよくの清めを感じさせることはない。無論、フォボスやダイモスの影もそこにはない。巫医ふいの立ち姿でもない。奇麗雀嵬きれいさいかいの跡もない。五畿七道の行路の下書きも見えない。中童子もいない。壺装束もいない。狩衣かりぎぬ揉烏帽子もみえぼしもいない。


 余白が見られないくらいの一面の桜並木。鹿島はこの絵を愛していた。橘葵たちばなあおいという画家の作である。とある画廊でこれを見つけたとき、鹿島は、なにに代えても、この絵を手に入れなければならないと直感的に思った。庫裏の一隅に吊すには似つかわしくない絵ではあるけれど、歩き疲れて立ち止まったときに、目の前に花弁を開く桜が映ずることがある。


 こちらに来て、最初に入った食事処を探す。が、どこを歩いても見つからない。探し疲れて意気が沮喪そそうすると、散歩を止める。あの食事処は、紺色の暖簾に「卜筮ぼくせい」に近い文字が健筆で書かれていた気がするが、その記憶は婆娑ばさとして影を落としている。


 季節外れの五十雀ごじゅうからが眼の前を通り過ぎた気がしたが、いまは夏ではない。終日ひもねす絵筆をふるっていたから疲れてしまっているのだろうか。主君を弑逆しいぎゃくする刃のような白光りさえ閃いた気がする。


 銅の花瓶はがらんどうだった。黄水仙は挿さっていなかった。思えばいまは春ではない。畳の上に寝転んで、天井に、霊の顔を探そうとしてみる。驍勇ぎょうゆうの侍が鼻の孔を開いている。遁世者が切なく目をつむっている。あるじ蹲踞そんきょするしもべの深刻な面持ちがある。馬蹄がある。蝋燭の火がある。渓がある。平野がある。それらが、眠りに落ちる前の鹿島を見ている。


 一冊の本を丁寧に読んでいる鹿島を、夢を見ている鹿島が鳥瞰ちょうかんしている。雲煙過眼うんえんかがんと言えるはずがない。一心不乱に眼を通している。自分も果敢に一枚の絵を作らなければならない。五十雀になり黄水仙を握っている鹿島は、飛檐垂木ひえんだるきに巣くうことはない。

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