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 美しい太陽は刑場である。はりつけの痕跡は太陽の滅亡の後に発見されるだろう。落丁のある本は魅力的だ。作家の認識しない範囲において、作家の関与の外側にあるものを内側へと引き込み、読者はテキストの園で戯れるだろう。美しい太陽と落丁のある本は、決して性交をしてはならない。悪しき同語反復であるから。


     *     *     *


 本来であれば、由紀の最初のセリフは、さぎの小説への不甲斐ないほどの賛嘆さんたんであるべきだ。それに、由紀に関する話は、もっと先に延ばすべきである(筆者はそう宣言してもいる)。筆者は十流の作家だと名乗るのもおこがましい。それに筆者がしていることは、物語を紡ぐというより、史料を繋ぎ合わせているだけだから。


 そしてこの物語(と言わせてください)は、鹿島と灯夏が列席した葬儀の主役(この言葉は不適切かもしれないが)のことに関することを書いて――長い旅を終える。


 とにかく筆者は、由紀のセリフをうまく変えなくてはならない。うまく変えるということは、正反対のことを表明するということである。


     *     *     *


「抱いてよ」――由紀は、なにより先にそう言った。そう言われたからには、鹿島は応じなければならなかった。「ゴムを買ってくるよ」「カバンに入っているから」――ふたりは、いままでのしこりを棚上げにするためにはまず、深海の圧力を想像しなければならないということを知悉ちしつしていた。


 恐るべき快晴の夜に紛れ込んだ煤煙。……


 抱擁から入る性交を愛する由紀は、鹿島に反撥はんぱつされる可能性の高い導入を演じたことによって、幾分かの復讐ができたと思った。しかし鹿島は抱擁に抱擁を上書きし、受け入れた。由紀の心身に重苦しい稲妻が一閃した。


 抱擁はいつまで続くのだろうか。手が届くかもしれない林檎に対して梯子はしごを用意しないような要領で、抱擁が解けないのを待った。涙がこぼれてもおかしくなかった。由紀は諒解りょうかいした。真実の愛はここにあったと。


「さようなら」

「うん」


 真実の愛は、別れの言葉と承認の返事の行間にある。行間に文字はない。音声もない。しかし言葉が浮かび上がる余地は残っている。


 もう会話など意味をなさない。ふたりの間に連絡はなくなった。鹿島と由紀は、同一の地平に存在しながらも、もう交わることはなくなるだろう。それでいい。少なくとも、筆者としては、それでいい。


     *     *     *


《三日月には参り墓がある。決して見ることのできない、参り墓》


 この鷺の文章を、ある翻訳家が賞賛されるべき誤訳をしたために、彼の師ともいえるハーフナー・ヴァン・デ・ホン・エッゲンシュタイナーが激怒したことはよく知られている。


 しかしここで、筆者が拙訳をすることは控える。いま開いている鷺の短篇集に、こんな言葉がある。代わりにこれを、鹿島に贈ろう――いや贈らないでおこう。


 なぜなら、筆者はまだ、鹿島のことについて書くつもりでいるからだ。しかしもう、灯夏と聯関れんかんして語るつもりはない。これから記すことは、由紀とも灯夏とも関係が無くなったあとの、鹿島のことである。

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