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 筆者はこれから――こうして「筆者は」という主語が登場するたびに、「読者は」げんなりしているかもしれない。そう思うことが、しばしばある。筆者は何度も、この物語に筆者自身が登場することを躊躇ためらってきたし、一度はそうしないことを宣言した。しかしこれからも、この物語を追ってくれるのだとしたら、なぜそうしなければならないのかを、諒解りょうかいしてもらえることと思う。


 筆者はこれから、莉緒の母の日記の一部を引用する。難渋な語彙が散見されるし、筆者自身意味がよくつかめない箇所もあるが、彼女がことを考慮して、そのままとしている。なおひとつ注釈を加えておくと、「彼」という代名詞は、鹿島のことである。


     *     *     *


 彼が魅力的なのは、わたしが付き合う前の夫の幻影をそこに感じるからであって、付き合ってから結婚しいまに至るまでの過程において、夫と彼は永遠の不等号だし、その審級は、剣戟けんげきを加えるに足りる、わたしの認識の齟齬や欺瞞ぎまんを見出すことはできない。ようは、プレ・ハズバンドとハズバンドのうち前者をわたしが認識こそすれ経験していないということだ。言い換えるなら、二度目の処女を失い、三度目の童貞を奪ったということである。しかし彼がポスト・ハズバンドになることはない。


 わたしは彼の背中を何度ひっかいたことか分からない。ひっかかないではいられない。快楽のためというより、それ以上に、打ち上げ花火を狙撃し捕獲し彫塑ちょうそするが如くに、自由気ままな彼との淫奔いんぽんを望むからだ。彼を独占したいという気持ちなどという、大雑把なくくりを一度解体したときの、接続と切断の果てに見いだされる、索引拒否衝動とフラット・ディクショナリーが、わたしを彼へと意志させようという意志を、意志させようとする。トートロジーではなく。


 ゴムを結んで壁に投げると、結び目は解けて、床に池が作られた。プロテスタントであり反攻であり、反転であり転回であるその藝術から視線を外し、わたしたちは情熱的に目を衝突させて、自然と唇を重ね合う。夫とはできないことを、彼と試すことができるし、試した結果がどうなろうと、彼はポスト・ハズバンドの領野に闖入ちんにゅうできない。この不倫が、究極的な解放と、大きな物語の復権でなくてなんであろう。


     *     *     *


 炎天下の飢えた狼の分派のおさは――彼は、××駅の出口に彼女を見つけると、じっくりとじらしてやろうと思い、すぐには姿を現さないことに決めた。遠くの景色がゆらゆらと歪んで見える真夏の××は、樹木の影や建物の下に、大勢のひとを貯えていた。


 彼の影に放物線を描いて石が投げ込まれた。振り返るとそこにいたのは彼女だった。彼女は、彼が予想していたより彼を探すのがうまかった。そして、ただれるほど情熱的だった。パラソルの影でふたりは、芳醇で爛熟した口づけをした。インセスト・タブーを破ったまむしの姉弟のように、ぬらぬらと舌を絡ませて。

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